2021年2月17日から四旬節が始まりました。非公開で行われた「四旬節第1主日のミサ」をお届け致します。
皆様どうぞ実り豊かな四旬節をお過ごし下さい。
《動画》
【第1朗読】創世記9・8~15
【第2朗読】Ⅰペトロ3・18~22
【福音朗読】マルコ1・12~15
(約30分)
《入祭のあいさつ》
おはようございます。
私たちは、先行きの見えない状況の中で四旬節を迎えました。暗闇の中を不安のうちにさまよう私たちは、1年が経過し、再び灰の水曜日を迎えました。残念にも灰の式を行うことができませんでしたが、それでも、改めて四旬節を始めましょう。
四旬節を始めるにあたり、預言者ヨエルは、あなたたちの神に立ち返れと、呼びかけます。
四旬節は、まさしく私たちの信仰の原点を見つめ直す時です。信仰生活に種々の困難も感じていますが、信仰の原点への立ち返りを忘れてはなりません。
私たちの信仰は、今、危機に瀕しています。
集まることが難しいなか、これまで当然であった教会生活は、様変わりしました。その中で一人ひとりが、どのようにして信仰を守り、実践し、育んでいくのか問われています。
もちろん典礼や活動に制限があるからといって、教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。私たちは、信仰によって互いに結ばれている共同体なのだ、という意識を、この危機に直面する中で、改めて心に留めていただければ、幸いと思います。
祈りのうちに結ばれて、この暗闇の中で、命の源であるキリストの光を輝かせましょう。
弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつもともにいてくださいます。
ではミサを始めるにあたり、回心の恵みを願いましょう。
《ミサ説教》
マルコ福音書では、イエスは福音宣教の前に、40日間荒れ野で過ごしたと書かれてあります。私たちも四旬節を過ごすにあたり、霊に導かれて荒れ野で過ごすような心がけが必要でしょう。
荒れ野といっても、日本人の私たちは、砂漠に行ったこともなく、経験がないので、ピンとこないでしょうが、それでも山に登ったり、深い森に入ったりして、人里離れたところに行くと、多少なりとも理解できるかもしれません。
荒れ野といいますと、普通人間があまり踏み込まない世界で、まさに世俗的な生き方の正反対の印と言えましょう。カトリック作家の一人で、高橋たか子というかたがおりますが、なにかのエッセイで、仲間の一人が修道院に入ることになったと書いてあります。その彼女が、一旦修道院に入ると決意すると大きな変化があり、化粧を最小限にして、イヤリングもしなくなり、飾りを取って、全身全霊神だけに向いて行くようになった、と記しています。
このように、神に向かっていくとは、世俗的な物を置いてゆく、執着しているものから離れる、捕らわれているものから距離を置く、という意味です。しかし、荒れ野に入ると誘惑が出てくる神に向かって、何か捨てて行く時に、今まで経験したことのない深いところにある何かに捕らわれていることが表面に出てくることがある。いわゆる、負の部分が大きく見える。本当に捕らわれているものが何であるかが見えてくる。
私たちにとって難しい。経験では、自我の中の深いところに突き刺さっている闇の世界、暗闇の世界が、私たちを苦しめているということが分かってくる。それを脱ぎ捨てるのは確かに難しい。イエスが言われた通り、「サタン、退け」と言えるでしょうか。
またある画廊で「闇」というテーマで、それぞれの画家が描いたものの展示がありました。闇であるからキャンバスを真っ黒にすれば良いのではなく、かえって、闇を描くために光を描くのである。闇が分かるためには光が必要。光が当たって闇を描くことができるのである。
旧約聖書で、神の民が荒れ野で神に顔を向けることができた。つまり闇の中で、荒れ野で初めて神の恩寵を知ったのである。祈りとか断食、苦業にあって、私たちは神の光を受けることができましょう。