協力司祭 榎本 飛里
「いつ・だれが・だれに・どこで・なにを・どのように・なぜ」行動するのか? 聖書をひもとく際に、これらの疑問詞を意識するだけで黙想の種は尽きません。是非やってみて下さい。今回は「神が、奉仕者を通して、人びとに、道を示す際に何が望まれるか」という点にのみスポットを当てて話を進めることにします。
奉仕者とは司祭のことです。当然、神と人への奉仕をするわけですが、対象を「神」と「人」とに分けて考えるとうまくいきません。多くの場合、神に対する真の奉仕は人びとへの奉仕という形で表現され、あるいは人びとの代表・代役としての奉仕でもありますし、真の意味での人びとへの奉仕は神への奉仕そのものだからです。これを踏まえずに、司祭が「私は神に仕える為にこそ存在する」とか「人びとの望みを叶える事こそ私の責務だ」とか、どちらか一方を強調し過ぎるようなことになると、神と人とが分断されてしまいます。司祭職というのは神と人とを繋ぐもの……というのが本質です。
司祭には、その召命の根源から、「特有の視野」が与えられていると私は考えています。
経験から言えば、それは赦しの秘蹟において顕著に発現します。司祭は、(たとえ自分のことに関しては盲目であっても、)人の救いのためには目が開かれて、その人の霊的状態が良く見えるようになります。そこで、適切な道を示すことができるようになるのです。告解場に座ると霊的なスイッチが入り、普段の自分の(人間的)考え方は鳴りを潜め、「神の慈しみモード」に突入します。
このように、神は「司祭が司祭職を行使する際に」必要な援けをお与えになるのですが、それは、司祭職が行使される場合に「限って」のことです。そうではない日常の場面においては、たとえ司祭といえども、他の人びとと同様に「十分に与えられている恵みを駆使して、自分で何とかする」ことが求められます。つまり、司祭に聖人を求めるのは、(気持ちは理解できますが、)甘えです。(今、私はマザー・テレサを「甘えた人」と断じてしまいました。なんという傲慢でしょうか!)
聖人にはあなたがなって下さい!! 司祭もあなたも条件は同じです。聖人になるための恵みは、司祭・修道者も、あなたも、皆同様に「十分に」与えられているのです。
「しかし、司祭は道を示す役割を買って出た人では? ならば、その実現に向けて務める義務があるはずです!」その通りです。ただ、同時に自分に対しても同じ目を向けて欲しい。
「自分は洗礼を受ける際、聖人になる約束をしたではないか!」と。
道を示すとは、目隠しをした人の手を引くことではありません。目隠しを取り払う手助けをすることです。今こそ「甘え」という目隠しを投げ捨てましょう。そして、「一緒に」聖人を目指して行きましょう。これが私の道の示し方です。
(教会報「コムニオ」2022年5・6月合併号より)