私は自分の召命を考えると、母親の存在が大きくからんでいたように思います。私の母は臨終洗礼でありましたが、キリスト教的愛の心で自分の家族だけでなく、他の人に対しても優しさを示してきました。
もちろん私と兄に対しては深い愛情を注いで育ててくれました。一つの思い出として、母は「家が貧しくても子供には美味しいものをお腹いっぱい食べさせたい」という親心から、いつも食べきれないほどたくさんの料理を作ってくれました。しかし、その陰では子供の残り物ばかり食べていた母の姿がありました。
また母は誰に対しても寛大で、私の知らないところで、経済的に困っていた親類や友人を助け、相談にものっていました。
そのために母が亡くなったとき、多くの方がお悔やみに来てくださり、皆が母の人柄を惜しんでくださいましたが、私自身、自分の母親がこれほどまでに多くの人たちから愛され、好かれていたことをほとんど知らなかったので大きな驚きでした。
でもそんな母のおかげで、私はどんなときでも前を向いて歩いて来られたように思います。母に感謝しています。
私は信者の家庭に生まれたわけではありませんが、母は人間として大切な“優しさ”を残してくれました。そしてその“優しさ”が私を司祭、修道者の奉仕の道へと向けさせてくれたように思います。
母は私が司祭に叙階されて2年後に亡くなりましたので、もうその優しさに触れることはできません。しかし今、私は聖母マリアの母性の中に、あの身近な母の優しさを感じています。
母親の愛というのは、いつも子供に向けられています。それと同じように、聖母マリアの愛もすべての人間に、母の心をもって向けられています。
カトリック教会には、「マリアをとおしてキリストへ」という道が準備されているのは、キリストへ直行するよりも、マリアのもつ母性に、私たちが身近な親しみをもって、安心して甘えながら、キリストの救いへと歩んで行くことができるからです。
私たちの中には、人を恨んだり、憎んだり、嫌ったりといった醜い感情があります。また神から愛されて、赦されている存在だとわかっていても、なかなか人を赦せない心もあります。そんなとき聖母の優しさを考えることで、赦し難いと思える人がいても、嫌で避けたいと思える人がいても、穏やかに優しくなれるような気がします。
いつも天を仰いで歩んできた聖母マリア、この“もう一人のお母さん”である方の生き方の先にこそ「被昇天」がありました。この聖母のおかげで、私も天を仰いで歩んでいけるように思います。
そして聖母マリアの優しさによりすがりながら、私自身、いつか神によって天に上げられることを願っています。
主任司祭 西本 裕二