阿部仲麻呂(都筑教会協力司祭、東京カトリック神学院教授)
「扶助者聖母マリア」(「たすけ手、聖母マリア」[キリスト者をたすける者としての聖母マリア])という呼び名があります。「ふじょしゃせいぼマリア」と読むのですが……。
この呼び名を初めて聞いたのが、1981年のことでした。鷺沼教会において。ガエタノ・コンプリ校長先生の語りによって(当時、川崎サレジオ中学校、サレジオ高等学校、志願院、教会、幼稚園など、すべての教育施設が鷺沼にありましたので、学校関連の行事やミサも鷺沼教会聖堂を借りて行われました)。
彼は「タスケテ⤴ セイボマリア」と発音しました。それを聞いた中学時代の仏教徒だった筆者は、「助けて!⤴ 聖母マリア!⤴」として理解しました。なぜならば、コンプリ師による発音が「タスケテ⤴」という抑揚でしたので未信者の中学生の筆者には「助けて!⤴」としか思えなかったからです。「助けて!⤴」ならば、そのあとに続く言葉もおのずと「聖母マリア!⤴」として理解されてしまうのです。それで、聖母マリアに対しては「助けて!」と願うべきなのだと筆者は勝手に理解したのでした。
日本では、本来ならば「タスケテ⤵ セイボマリア」(たすけ手、聖母マリア)と発音するわけです。しかしコンプリ師の発音があまりにも印象深かったので、いまでも筆者は聖母マリアというイメージに対しては、「助けて! 聖母マリア!」という意味内容を反射的に連想してしまうのです。
「助けて! 聖母マリア!」というコンプリ師の独特な発音の抑揚が彼の肖像とともに、42年の歳月を経た今でも心の中で響きまくりますので、いささか閉口しています。強烈な印象というものは、ものすごく困りますよね……。度々コンプリ師のあの顔が心のなかで今日も迫ってくるものですから。もはや、どうしても拭うことのできないイメージとして心の底に定着してしまったのです。
しかし、キリスト者は「助けて! 聖母マリア!」と叫ぶことができます。「困ったときの母だのみ」ができるという特権がキリスト者には備わっているわけです。
さて、FMAと呼ばれる修道女会があります。「扶助者聖母マリアの娘たちの会」(ラテン語では Congregatio Filiarum Mariae Auxiliatricis という名称です)という呼び名をもつ修道女会です。以前は、この日本では「扶助者聖母会」と呼ばれていました。
しかし、少し前から、この日本では、なぜか「サレジアン・シスターズ」と呼ばれるように変更されているようです。
ところが筆者にとってはFMAは「扶助者聖母会」でしかありえません。どうしても「サレジアン・シスターズ」とは口が裂けても呼びたくはありません。元の意味が崩れてしまうからです。本当に本当にFMAは「扶助者聖母会」としか呼びようがありません。
「扶助者聖母会」のほうがかっこうよいのになあ、と筆者は勝手に毎日思っています。「シスターズ」だと、筆者にとっては何らかの漫才師グループであるかのように思えてならないからです。
FMAのシスター方は、普通のふるまいを普通にこなしておられます。相手と同じ目線で行動して、常に親しみのある仲間として、共に歩む自然体の姿勢が安心感をもたらします。気さくで明るく親切に、当たり前のことを丁寧にこなす生き方は魅力的です。シスター方がそこにいるだけで、誰もが愉しく過ごせるようになるからです。こうした伝統はFMAのシスター方が聖母マリアの生き方を十分に思い巡らせて受け継いでいるから保たれているのでしょう。
ともかく、聖母マリアは、キリスト者一人ひとりの「扶助者」です。聖母マリアがキリスト者一人ひとりを大切に養って下さるからです。養い育ててくれる母親の力強さを発揮して下さるマリアが今日も私たちの叫びを聞いて下さいます。ですから、私たちは、素直に「助けて! 聖母マリア!」と叫べばよいのです。ただひたすら、子どものように、素直に。
それにしても、誰かを「たすける」ということほど、難しいことはありません。「たすける」という今回の『コムニオ』誌の主題をいただいて、筆者は「たすけて! 聖母マリア!」と、思わず心の中で叫びました。なぜならば、聖母マリアと「たすける」という主題とが自動的につながって連想されてしまったからです。
1981年に心の中に定着した聖母マリアのイメージは42年を経た、今でも確かに色褪せることがありません。「聖母マリアが相手をたすける役目を果たす」というキリスト者独自の理解の仕方は宣教師による素朴な発音の響きによって日本の少年の世界観を確かに刷新しました。
コンプリ師もFMAのシスター方も共通して聖母マリアに信頼を寄せて、素朴に毎日の人助けを続けておられます。何の屈託もなく。ひたすら。そのような素朴な信頼感を私たちも大切に受け継ぎつつも前進してゆきたいものです。相手を尊敬して親切に関わり続けることが「たすける」ことの核心なのではないでしょうか。素朴な気前よさ。小難しく考えるよりも、まず、単純に親切を積み重ねてみるだけでよいのでしょう。
(教会報「コムニオ」2023年7・8月号より)