協力司祭 榎本 飛里

人との別れの場面にあって「私は『別れる』という表現は使いません。『離れる』と言います。たとえ離れても心は一つだからです」と話し続ける宣教師、懐かしい人もいるでしょう。もちろん、今でもご健在です。

この方の主張していることは分かるのですが、日本人が「別れる」という言葉を選んで使ってきた心情と背景とを、少し誤解しているようです。
「離れる」という語は、もともと別々のものが隣接した状態から、再び離れていく動作を表しています。一方、「別れる」は一体であるものが切り分けられて行く様を表現する言葉です。全てが一つであるのに、やむにやまれず引き裂かれていく悲しみと嘆きがこの言葉に込められているのです。ですから、「心が一つ」なのはわざわざ口に出すまでもありません。

このように、この国の人びとは古来より和を大切にして来ました。和を乱す人、周囲に対して尖っている人には「咎・科」がある……とする考え方や、現代では悪いイメージの強い「村八分」という制度(実際には温情の現れであるという解釈もあります。)を見ても、本来は皆が一つであるべきだという考え方を持っていたことが分かります。
日本人が、この和の精神を忘れてしまったとは思いたくありませんが、社会の構造や人びとの暮らしぶりが変化し、人と人との交わりを「煩わしいもの・自由を奪うもの」と考える風潮が少しずつ広がってきているという評価は、ひょっとしたらその通りなのかも知れません。

ところで教会に目を留めてみると、その本質は一言で「交わりと一致」と表現できるでしょう。これは、日本古来の和のイメージと繋がります。
信徒一人ひとりが神のために、あるいは他の人びとのために時間を割くとき、心を割くとき、そこに和が生まれます。一つのパンが司祭の手で割かれるとき、それは分かれていた命を再び一つに繋ぐものとして、私たち一人ひとりに分け与えられるようになります。
一人ひとりが生きるために、パンは、一度引き裂かれなければならないわけですが、そこで終わりではありません。そこで終わらせてはなりません。

私たち一人ひとりが、咎を持ち、孤独で、他の人びとと引き裂かれた存在であるとしても、それらは「再び一つに繋ぎ合わされるため」の前提でもあることを思い起こしましょう。完全な者は、救いを体験することができません。
引き裂かれた私たちを再び繋ぐために、一つであるパンが引き裂かれるのですから、その痛みを決して無駄にしないように努めましょう。

(教会報「コムニオ」2024年3・4月号より)

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