今年7月から行われる予定の東京オリンピックは、コロナ禍にあって1年延期の実施になります。今回のオリンピックで誰が一番大変な思いをしているでしょうか。それは競技に出場する選手たちだと思います。なぜかと言いますと、選手たちは競技のために大変な練習を重ね、食事の制限などをしてきているからです。1ヶ月前にちょっと頑張って、我慢すれば良いというものではありません。何年も前からスケジュール管理や体の調整をする必要があります。ですから1年延期でモチベーションを保つのがどれほど大変なことかと思います。けれども選手はメダルを取るためにひたむきに努力してきているから、きっとそれができるのでしょう。
「兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって、上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13-14)
使徒パウロは、競技と信仰を重ね合わせて、私たちが“目指すべきもの”が何であるかを教えています。洗礼を受けるということは、信仰のスタートラインに立つことです。そしてそこからキリスト信者は“復活の栄冠”というゴールを目指して走り抜く必要があります。
そしてその走りは、彼が言うように明確な目標をもって、オリンピック選手たちのように賞を取るためにひたすら走ることが大切です。これは信仰が誰かと競技する歩みで勝ち残らないと賞がもらえないといったものではありません。私たちの信仰の歩みには、はっきりと目指すべき目標があって、そこに向かってひたむきに歩むべきことを示しているのです。そしてその歩みというのは、人生の終わりにちょっと準備すれば良い程度のものではなく、洗礼を受けて信者になってから、ずっと信仰のモチベーションを保ち、信仰生活を頑張って生きなければならないのです。
人間どんなことでもしっかりした目標をもって取り組まなければ、一生懸命になれず、途中で諦めてしまいやすいものです。ですから、私たちキリスト信者も目指すべき“キリスト”がブレてしまうと信仰を無くし、熱意を失ってしまう危険があります。
またパウロは、「後ろのものを忘れる」ことが大事だと言っていますが、“後ろのもの”とは何でしょうか。それは自分にとっての過去の過ちや失敗です。このようなものが私たちを前のものであるキリストに向かわせるせるために妨げになるからです。
そしてまたパウロは自分について正直なことを言っています。多くの迫害を受け、命をかけて使命を果たしてきた彼が自分は「既に捕らえたとは思っていません」というのです。私たちは、キリスト信者になっただけで、キリストにたどり着き、復活できると思い込んで安心していますが、彼はまだ自分はたどり着いていないと言っているのです。
これは彼が必死にキリストを求めてきたからこそ言える言葉だと思います。
私たちは無駄な人生、無駄な信仰生活を送らないためにも、つねにひたむきな心でキリストを求め続けて歩んでいかなければならないのではないでしょうか。
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