10月「ロザリオの月」に入りました。ご存じのようにロザリオの祈りは「取り次ぎの祈り」です。聖母マリアに祈って、彼女がそれを聞き入れて、叶えるのではありません。聖母マリアが私たちの祈りを取り次いで、神が叶えてくださるものです。ですから聖母マリアも聖人同様、神ではありません。本来の信仰の対象である神への信仰は「崇拝」です。しかし聖母マリアや聖人たちへの信仰は「崇敬」と言えます。つまり簡単に言うと、聖母マリアや聖人たちへの祈りは、彼らへの祈りを通して、神へと届けられ、神がその願いを聞き入れてくださるというものです。

そういうことで、聖母マリアや聖人たちは、取り次ぎの力があると私たちは信じて祈るのです。特に聖母マリアは、人間の中でも、また聖人たちの中でも誰よりも取り次ぐ力のある方です。それは神が、聖母マリアを誰よりも愛され、そしてご自分の最も近くに置かれ、そしてまた人類の母として立てられたので、その願いを神が聞いてくださると信じているからです。

カナの婚礼の話(ヨハネ2,1-12)でそれがわかるでしょう。イエスとマリア、そして弟子たちが招かれた婚礼の席で、マリアは、ぶどう酒が無くなったことに気づきます。婚礼の席で、ぶどう酒が足りないというのは、祝いの雰囲気を壊しかねません。それを心配したマリアは、息子イエスの力に信頼して、「ぶどう酒が無くなりました」と伝えます。ところがイエスは「私の時は、まだ来ていません」と母マリアに告げます。しかし結果的には母マリアの願いを聞き入れ、イエスは水瓶に水を入れるように命じて、それをぶどう酒に変えて、水瓶をぶどう酒で一杯にしました。これは神であるイエスは、マリアのどんな願いでも必ず聞いてくださる方であることを示しています。

話は変わりますが、以前働いていた教会の朝ミサに他教会から一人の信者の女性が来ました。彼女は、顔が見えないほどベールを深々とかぶり、他の信者が声をかけても交わろうともしない不思議な女性でした。ミサが始まると彼女は、椅子ではなく、小聖堂のうしろの床に正座をして、ロザリオを取り出して、ミサ中ずっとロザリオの祈りを唱えていたのです。それを見ていた私はミサ後、この女性に説明して、「ミサは、神であるキリストへ祈りで、賛美と感謝をささげるものだから、ミサ中に、ロザリオを唱えるのは相応しくないので、ミサ前後に唱えるように」と言いました。すると彼女は無言のまま立ち去りました。ところが翌日もまた朝ミサに来て、同じことをしていたのです。つまりこの女性は、残念ながら司祭の助言にも耳を傾けようとせず、頑として自分のやり方を変えない盲目的な方であったように思います。この女性はしばらくして来なくなりましたが、このような方は、信者の中に時々いるように思います。

カトリック信者として大事なのは、聖母マリアの存在を正しく理解して祈ることです。そうでないと偏った信仰のまま歩むことになりかねません。そして気をつけないと、周りの人や一般の人に違和感を与えるだけでなく、〝マリア教″と言われて誤解や揶揄され、躓きをあたえてしまうことにもなるのではないでしょうか。

主任司祭 西本裕二

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