今日の福音は、エリコの盲人の話です。この話で大事な点は何でしょうか。それはこの目の不自由な人が自分の望みを言う前に、先にイエスが「何をして欲しいか」と彼の思いを尋ねたことです。長い間、目が見えずに苦しんでいた人だったら、「あなたは治りたいのですか」と尋ねるのが普通だと思います。
またイエスほどの人だったら、その人が何を求めているかどうかくらいは解っていたでしょう。それでも敢えてイエスは、目の不自由な彼に「何をして欲しいか」と尋ねたのです。
この何をして欲しいのかというイエスの問いかけは、今の私たち一人一人にも問いかけているものだと思います。しかし私たちは、今、自分が魂の奥底で、本当に求めているものを率直に答えることができるでしょうか。
イエスから目を癒された人は、「何をしてほしいのか」と聞かれたとき「目が見えるようになりたい」と自分の願いを率直に答えました。彼は道ばたで物乞いをしていたのですから、「お金を下さい」と願ってもよかったと思います。それでも彼は自分の目が見えるようになることを切望したのです。つまり彼にとって一番必要だったのは、イエスでありました。メシアであるイエスの手によって、癒していただきたかったのです。それだから彼は最初に「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」とイエスにすがりついたのだと思います。
信者になっても、自分がまだ何を求めているのか分からないで、もがいている人がいます。そのような人こそ、信仰の心でもう一度、キリストを求めるべきです。そうすればきっと、自分が本当は何を求めるべきなのかということがはっきりと見えてくるのではないでしょうか。
話は変わりますが、使徒パウロは、熱心なファリサイ派のユダヤ教徒として、キリスト信者を迫害していました。そしてキリスト信者を捕らえるためにダマスコに向かう途中、彼はキリストの声を聞き、落馬して目が見えなくなり、のちに回心します。つまり最初、彼は自分が何を求めているのか見えていなかったと言えるでしょう。しかしパウロは信仰の心でキリストを求めたことで、自分が本当は何をすべきなのか、どう生きるべきなのかが、はっきりと見えてきます。
それからパウロの生き方が大きく変わっていきました。それはキリストのために生きるようになったからです。
私たちもパウロのように、もう一度信仰の心でキリストを求めてみましょう。そうすれば、きっと自分が何のためにキリスト信者になり、何をしなければならないかといった本質的なことがよく見えてくるのではないかと思います。
主任司祭 西本裕二