待降節に入りました。「待降節」は、主の到来を待つ期間ですが、司祭の祭服などから分かりますように、典礼色が紫になります。ですから、四旬節の典礼色と同様に回心を呼びかけ、犠牲を行う期間だと思っている方が多いかと思います。また待降節に「共同回心式」を行う小教区が多いのも、さらに勘違いしてしまう部分かと思います。もちろん主の到来の準備として、ゆるしの秘跡や共同回心式を行うことは良いことだと思います。
しかし待降節は、それ以上に喜びが強調される期間です。それは主の到来を喜びに満たされた心で待つ時だからです。例えば待降節は、賛美と喜びの叫びである〝アレルヤ″を使い、また四旬節に勧められている〝大斎・小斎″の犠牲の務めなどは行いません。
「喜びの手紙」と呼ばれるパウロのフィリピの信徒への手紙の中で、彼は「主にあって喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言ってキリスト信者に対して、常に喜びをもって生きることを求めています。それはパウロのいう喜びは、当時、すでに「主がすぐに再び来られる」という差し迫った主の到来があるとキリスト信者の多くが信じていたからです。
しかしフィリピの手紙は「獄中書簡」と言われているように、パウロは、この手紙を捕らわれ身の獄中にあって、辛く、苦しい思いをしている時に書いています。それを想像して読みますと「なぜ彼はそんな大変な状況でこんな手紙を書いたのだろうか」と不思議にさえ思います。それはパウロが主の到来を待ち遠しく思っていたからだと考えられます。つまりパウロにとって、主の到来は、裁きの時ではなく、救いの時として捉えていたからでしょう。
私たちも主の到来を待ち遠しく思い、この待降節を過ごすならば、パウロのように、日々の生活の中で辛く、苦しいことがあっても、それを喜びに変えていくことができるのではないでしょうか。
参照「サンパウロWEBサイト:待降節とは」
主任司祭 西本裕二