四旬節第一主日の福音は、毎年「イエスの荒野での誘惑」について読まれます。イエスも受けた「誘惑」について少し考えてみましょう。
隠れキリシタンの時代、浦上で起こった「浦上四番くずれ」という弾圧がありました。これは浦上で起こったキリシタンに対しての4度目の弾圧で、これがもっとも大規模な弾圧でした。このときに浦上にいた沢山の村人が捕まり、3400人ものキリシタンが流刑、つまり他の場所に無理矢理送られました。その中でも、あの津和野の乙女峠に送られたキリシタンたちが、様々な拷問を受け、最もひどい扱いを受けたことは多くの人が知るところです。
そしてそのような中で、幕府は、最初は神道や仏教などの教えをもって改心を促していましたが、キリシタンたちの信仰は厚く、改心するものがほとんどいませんでした。そこで彼らは、やり方を変え、拷問に拷問を加えて、キリスト教の信仰を棄てるようにせまります。
キリシタンたちは、着の身着のまま連れ出されたので、牢獄で冬を越すのは相当な試練でした。それから日増しに拷問が激しくなって、食事を減らされ、池の氷を砕いて、裸にして投げ込まれたり、火あぶりにして責めたりしました。
こんなひどい過酷な拷問の中で、人間的な弱さから何人かのキリシタンたちは、口でキリストを知らないと言って否定し、キリスト教を棄てました。
彼らも、まさに今日の福音のような激しい誘惑があったと言えるかと思います。このようにすべての人がイエスのように誘惑に打ち勝ったわけではありませんでした。でもキリストを知らないと言って、キリスト教を棄てた人たちは、仕事をして稼いだお金で食べ物を買って、信仰を守り通して牢獄にいる仲間たちにひそかに差し入れをして助けてあげました。
この大きな弾圧が終わって、キリスト教が認められるようになったとき、牢獄にいたキリシタンたちは自由になって故郷に戻りました。そして彼らは、弾圧のときにキリストを棄てた仲間を心からゆるして、さらにその仲間を弁護して、彼らが教会に戻れるように配慮してあげました。
「誘惑」によって、私たちも弱さから負けてしまうことがあります。けれども神はそのような私たちを決して責めるような方ではありません。
「誘惑」において、もっとも大事なのは、隠れキリシタンたちが、ある者は転んでも仲間を助けたように、そしてある者は信仰を棄てなかったけれども転んだ仲間を受け入れたように、どんな誘惑があっても、愛の心を忘れないことです。
このような愛の心があれば、神に心を向け、また信仰を取り戻すことができるからです。そしてそのような心があれば、神の力が私たちの中で大きく働き、誘惑に打ち勝つ本当の力が与えられるのではないでしょうか。
「誘惑」というのは、負けないようにすることが大事なのではありません。誘惑の中でこそ、人を思いやる愛の心を持つことが大事です。ですから、私たちは四旬節、この愛の心をしっかりと持って過ごすように致しましょう。
主任司祭 西本裕二