4.「聖年」関連の用語解説を行いましょう。

「聖年」関連の用語解説(語義;免償、希望、ニカイア公会議、ロゴマーク、巡礼)
 それでは「聖年」関連の用語解説(言葉の意味内容の説明)

⑴免償について

「免償」とは、私たちが誠実に自分たちの罪(神から遠ざかり、神の慈愛深さを忘れて自己中心的にふるまうことで神と隣人を傷つけて悲しませること)を反省して「ゆるしの秘跡」を受けることで「新しい人として前進する決意を固めるときに、果たすべき償い(おわびのしるしとして犠牲を捧げること=何らかの弁償をすること、埋め合わせをすること)が教会により免除されること」です。私たちの「誠実でいさぎよい反省の態度」と「愛情を深める前向きな決意」を全面的に受けとめる神による慈愛深い気づかいの歴史的な形式が「償いの免除」です。神は御子キリストを私たちのもとに遣わすことで、慈愛深い呼びかけを実感させます。キリストによるあがない(神によるゆるし、解放)に感謝して、キリスト者がたがいに協力して支え合って連帯するための教会の公的なはげましが「免償」または「償いの免除」です。

⑵全免償についてのカトリック教会の公式見解

ⅰ.免償(indulgentia)とは  私たちが罪を犯すとき、ゆるしの秘跡によって「罪」がゆるされても、罪自体がもたらす悪の結果(すなわち「罰」)は残ります。「免償」は、ゆるされた罪に伴う有限の罰を、キリストと聖人たちの功徳の宝を分け与えてもらうことによって軽減するものです。ゆるしの秘跡の最後に、司祭から果たすべき「償い」が言い渡されます。一定の条件を果たして免償を受けるなら、「償い」が全面的に(全免償)あるいは部分的に(部分免償)果たされたとみなされます。しかし「免償」はゆるしの秘跡の代わりにはなりません。

ⅱ.全免償を受けるには  まず「免償」(部分免償もしくは全免償)を受けることを望む者は次の三つの条件を満たさねばなりません。① 免償を受けたいという意志をもっていること。② 大罪がゆるされていること。/③ 免償を受けるために教会が定めているわざの一つを果たすこと。

 次に「全免償」を受けることを望む者は、以下の条件をも満たす必要があります。④ 全免償を受けるために、教会によって定められているわざを果たす前後の数日~数週間のうちに、ゆるしの秘跡を受けること。/⑤ 同じ期間のうちに、聖体拝領すること。/⑥ 教皇の意向のために祈ること。 

「全免償」を得るために、教会が定めているわざには、以下のようなものがあります。①少なくとも30 分間、聖体訪問をして黙想する。/②少なくとも30 分間、聖書を読む。/③少なくとも三日間、黙想会に参加する。/④「十字架の道行き」を行う。/⑤個人ではなく共同で「ロザリオの祈り」を唱える。/⑥指定された大聖堂、教会堂、巡礼地へ巡礼する、など。

⑶希望[キリスト]について

今回の通常「聖年」には「希望の巡礼者」という主題があります。「希望」については『カトリック教会のカテキズム』の1817項から1821項にかけて説明されます。特に重要なポイントを要約すれば以下とおりです。「希望」とは、「信仰」や「愛」とともに重視される「対神徳」(人間が神に対して向き合うときの態度)のひとつであり、私たちは希望によって永遠のいのちを自分たちのしあわせとして神に求め、期待します。そのため私たちはキリストの約束に信頼を置き、永遠のいのちを得られるよう、また地上の生活が終わるまであらゆる苦難を耐え忍べるように、聖霊の助けを願います。永遠のいのちとは、「死後に到達できるかもしれない気高い状態」を意味するだけでなく、むしろ、「いま・ここで可能な充実したいのち」のことでもあります。それこそ、イエスが教えてくださった永遠のいのちです。——「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)。つまり、キリストとの交流によって、そしてキリストをとおして御父なる神と交流し、啓発される明確ないのちです。

「聖年」とは、「イエス・キリストといっしょに巡礼の歩みをつづけること」(シノドス)です。そして「聖年」とは、イエス・キリストを私たちの生活の中心にすえることであるとともに、イエス・キリストをこの世界のあらゆる人びとの生活の中心に戻すための努力を積み重ねるひとときです。なぜなら、イエス・キリストこそが私たち全人類にとっての希望だからです。

 希望をいだく者(キリストといっしょに歩む者)は、いかなる困難にぶつかっても、生きることを決してあきらめることなく、力強く前進します。毎日の生活のなかで、神のこまやかな働きに気づいて感謝する信頼感を大切にするからです。そしてキリストが再び来て支えることに期待して、明るい気持ちになれます。心の奥底からわきあがる聖霊のあと押しに励まされて愛情をこめて小さな親切を積み重ねて生きることで、まわりの人たちにも安心感を与えて、いっしょに喜び合う大らかさを示し、神の慈愛深いおもい(王である神による支配=まことの王である神による支えと配慮が満ちる状態=神の国=天の国=神によるおとりしきり)をこの社会で実現する歩みをつづけたいものです。

⑷ニカイア公会議1700周年を祝って開催される通常「聖年」

公会議とは、使徒たちの後継者である司教たちが集い、教義などの教会の重要事項を決定するために開催する会議です。

四世紀にキリストの神としての性質(神性)を否定する異端諸派が次々と台頭する状況において、当時の司教たちが教会の一致を守るために集まって話し合ったのが、325 年に開催された第一ニカイア公会議でした。教会の歴史において重要な転換点となった公会議です。この公会議を通して、御子イエス・キリストは御父と「同一本質」であると宣言され、「ニカイア信条」が定められました。こうして、あらゆるキリスト者が同じ信仰の立場を心をひとつにして告白するという意味で、「わたしは信じます」ではなく「わたしたちは信じます」という文言が採用されました。その後、聖霊や教会、死者の復活などの教義が討議された381 年の第一コンスタンティノポリス公会議を経て、東西の主要な教会で今日も共通の信仰宣言の祈りとして唱えられる「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」が完成しました。

 おりしも2025 年は、325 年に第一ニカイア公会議が開催されてから、1700 周年目にあたります。この記念すべき一年をきっかけとして、あらゆるキリスト教諸派の教会が一致に向けて、ますますの努力を積み重ねるとともに、よりいっそう対話をつづけ、具体的な協力の活動にも取り組むことが期待されます。ニカイア公会議では、復活祭をいつ祝うかについても討議されましたが、東西の教会においては、残念ながらいまだ一致した日程にはなれません。この1700 周年が、あらゆる教会が復活祭をともに祝うための最初の歩み寄りの機会となることを、教皇フランシスコは切望しています。

⑸標語とロゴマークについて

2025年の通常「聖年」の標語は、「希望の巡礼者」(Peregrinantes in Spem)です。このロゴマークは地球の四隅からやってきた全人類を代表する四つの像を図案化したものです。彼らは互いに抱き合い、すべての民族を結びつける連帯と友愛を示します。先頭の像は十字架をつかんでいます。それは、この人物が抱いている信仰を象徴すだけでなく、決して捨て去ることのできない希望をも表します。なぜなら、私たちは常に希望を必要としており、とりわけ最も困窮するときこそ希望が必要だからです。人物の下には荒波が押し寄せ、人生の旅がいつも穏やかな海で順調に進むとは限らないことを象徴します。日常生活の状況や、より広い世界の出来事によって希望に向けてより大きな呼びかけが必要となることもしばしばです。だからこそ、細長いいかりの形に変えられて、波に向かって降ろされる十字架の下の部分に特に注意を払うべきです。いかりは希望のシンボルとしてよく知られています。海事用語で「希望のいかり」とは嵐の中で船を安定させるために、非常時の操船に使用される予備のいかりのことです。巡礼の旅は個人が行うものではなく、むしろ共同体的なものであり、人を十字架へとより近づけて、信仰を増す力であるという特徴を、このロゴが表現します。ロゴの十字架は決して静けさをたたえたものではなく、むしろ動きをともなったものです。十字架は人類に向かって身をかがめ、人を孤独にすることなく、その存在の確かさと希望の確信を与えるために、人類に手を差し伸べます。

⑹巡礼の意義

古代イスラエルの民は、エルサレムの神殿に巡礼しました。キリスト者もこの習慣を採り入れています。巡礼を志す者は自分のからだ全体を用いて祈り、自分の生涯が神に至るまでの長い旅路であることを、五感のすべてによって経験します。つまり、いのちがけで全身全霊を賭して旅する巡礼の歩みは各自に人生の旅路の意味を再確認させる絶好の機会となります。

なお教皇フランシスコ自身が「第61回世界召命祈願の日メッセージ——希望の種を蒔き、平和を築くように呼ばれて」(2024年4月21日)において「巡礼」について述べました。特に私たちが、いますぐに、まず目覚めて起き上がるべきことが重要です。各自が「希望をもたらす巡礼者」になる素質を備えているからです。——「キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。わたしたちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見いだすためでもあります。内なる旅とはいえそれは、多様なかかわりに刺激され続けるものです。つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。神を愛し、互いに愛し合うよう呼ばれています。ですから、この地上におけるわたしたちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。その逆で、日々、呼びかけにこたえつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。わたしたちは希望の巡礼者です。よりよい未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。」[以下のサイトから引用しました;2024年「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ(2024.4.21) | カトリック中央協議会 (catholic.jp)

第二バチカン公会議は教会共同体を「旅する神の民」(まさに「巡礼者」としての教会共同体の家族的な姿である)として理解しましたが、教皇フランシスコも同様の視点で現在の教会共同体をながめます。それゆえに「希望の巡礼者」という主題を掲げて2025年の通常「聖年」を開催しました。召命とは、他者との関係性のなかで相手に奉仕すると同時に相手からも支えていただく相互補完的な連帯を深める生き方です。教皇フランシスコは聖霊の導きのもとで、あらゆる人が相互に支え合ってポリフォニー(多層なる音楽の美しいメロディー)を奏でることを呼びかけます。