7月22日、マグダラの聖マリアを記念します。彼女は罪を犯した女性とされ、その回心は、教会の聖人たちに最も影響を与えたと言われています。
しかしイエスは、ご自分の復活という最高の栄誉を彼女に表しました。なぜマグダラのマリアに最初に表したのでしょうか。イエスの母マリアでも、ペトロでも良かったのではないでしょうか。
それはイエスがご自分の栄光というものが正しく示され、それがしっかりと証明されるためであったと思います。神の栄光は、しばしば小さな者や罪人を通して表されます。つまり罪人であったマグダラのマリアが、回心して立ち直った姿にこそ、神の栄光の輝きが表されるべきであったからです。
マグダラのマリアは、イエスから受け入れられ、大きな罪を赦された分、イエスを慕う心が誰よりも強かったと思います。だからこそ、イエスが亡くなっても必死になってイエスを求めて、墓を見に行ったのだと思います。
マグダラのマリアのイエスに対する思いというのは、幼子のように単純で純真なものだったと思います。マグダラのマリアが墓に行ったときに、そこにいた二人の人に涙ながらに「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」(ヨハネ20.13-15)と言って心から願い出ています。
神は、私たちの才能や能力ではなくて、彼女のような自分の心のうちにある「ひたむきな思い」というものを何よりも大事に受け止めてくださるのだと思います。
世の中には、ひたむきに人生を生きた人はたくさんいます。『みだれ髪』を書き残した与謝野晶子という明治の歌人を皆さんもご存じでしょう。彼女は、夫の与謝野鉄幹とともに晩年、カトリックの洗礼を受けています。
与謝野晶子という女性は、ひたむきに作品を作り続けたことから情熱の歌人と言われています。しかし彼女の人生は波乱万丈で、実体験から書き記した恋の歌でデビューして、西洋女性の生き方に共感し、女性の立場を守るために選挙活動など様々な事を行いました。そして夫の鉄幹に先立たれ、夫を見送ることで永遠の愛というものを知ります。つまり彼女が人生をかけてひたむきに求めていたのは、本物の愛であったと言えるでしょう。
ですから、このようにひたむきに生きた彼女の人生には、必然とキリストとの出会いというものが待っていたのだと思います。
マグダラのマリアや与謝野晶子のようにひたむきに生きる姿というものを考えるときに、私自身、これほどまでに、ひたむきになって求めていたものがあっただろうかと反省させられます。
復活に対する信仰は、イエスへの「ひたむきな思い」とつながっています。この「ひたむきな思い」だけが私たちを復活したイエスと出会わせ、愛と福音宣教の使命へと駆り立ててくれます。
皆さんも、キリスト信者として、イエスという方をひたむきな思いで、つねに求め続けていくように致しましょう。
主任司祭 西本裕二

