■はえる——1997年3月から1999年6月に至る「聖母子」探訪

                           阿部仲麻呂(協力司祭)

いきなり私事ですが、1997年6月21日の聖アロイジオの祝日に下井草教会にて西本師とともに司祭叙階の恵みを白柳誠一枢機卿様の祝福とともに授けていただきました。それで、今年は叙階後29年目に突入したわけですが、当時28歳で叙階されましたので、早くも二倍の歳月を経たことになります(いまは57歳です)。それゆえ、最近は過去のことを、よく懐かしんで想い出します。過去を美化したがるので、老化したわけですね。

1997年3月から1999年6月までローマに留学しました(司祭叙階のときだけ一時帰国しました)。神学教授資格を取得するためでした(日本に帰国後は様々な機関で哲学や神学の諸科目を教えることができるように教皇庁の資格を得る必要がありました)。日本の便利さやドイツの安全さと比べるとローマはある意味で杜撰な街でもあるので、当時はイライラしていて怒り心頭だったのではありますが…結局は、いまではローマの街の気楽さが大好きで、再びあの空気のなかに戻りたいとも、密かに想っていたりもします。

ローマの南の下町であるトラステヴェレ(Trastevere)地区のテスタッチョ(Testaccio)という場所にあるニコラ・ザバーリャ通り(Via Nicola Zabaglia)に面したサレジオ会国際神学院(Opera Salesiana Testaccio)に居住しました。各国で院長職や管区長職を経験したサレジオ会司祭が集まって人生の見直しをして分野別の教皇庁立専門大学院に通って研究するための共同体でしたので皆自由に出張をくりかえしていました。その神学院の隣には扶助者聖母教会小教区(Chiesa Parrocchiale di Santa Maria Liberatrice)の聖堂が立っていました。少し歩くと教皇庁立聖アンセルモ典礼研究所(Pontificio Atheneo Sant’Anselmo)が丘の上にそびえていました。日の出と夕暮れの日没とがあまりにも美しい景色を創り出していました。毎日、丘にのぼって大自然のなかでいにしえのローマの空気感を味わいました。

トラステヴェレ地区を北に上るとトラステヴェレ聖母大聖堂(Basilica di Santa Maria in Trastevere)が見えてきます。この大聖堂はローマで最も古い教会建築です。教皇カリストゥス在位下の221年に建立されたからです。その後、12世紀になると教皇インノケンティウス2世による再建が実現し、今日に至ります。筆者は、この大聖堂に足しげく通いました。聖母子の姿を眺めながら祈ることで、約二年の留学生活を感謝のうちに噛みしめました。聖母子の連帯による輝きにおいて、神からの祝福を実感するという意味での探訪が大聖堂でのひとときだったわけです。

大聖堂内の正面上部のモザイク画は「玉座の聖母子」です。黄金色のモザイクチップが多数埋め込まれた円蓋の天井画はまばゆい光を放ち、さながら天空の神の居場所の気高さを表現していました。神の祝福を受けた、栄えある聖母子の姿が放つ威光は神々しさであふれていました。28年ぶりにこのモザイク画のことを想い出したのは、最近、以下の本を読んだことによります。——桑原夏子『聖母の晩年——中世・ルネサンス期イタリアにおける図像の系譜』名古屋大学出版会、2023年、156-176頁。

御子イエス・キリストの神としての威光に照らされていっしょに栄光を受ける聖母の気高い姿は、後に「御子の昇天と御母の被昇天」という神の祝福の姿の一連のつながりを生み出します。イエス・キリストとともに生きるからこそ聖母マリアも尊い輝きを得るわけです。こうして、御子の昇天と聖母の被昇天という神学上の説明の仕方は3世紀に創建された大聖堂の改修工事が施された12世紀当時のモザイク画としての「玉座の聖母子」を出発点とすることが理解できるようになります。

12世紀の時点では「聖母の被昇天」の絵画はあまり描かれてはいませんでしたが、代わりに「玉座の聖母子」の栄[は]えある姿が重視されていました。「栄える」[はえる]という事態は見栄えがする、輝かしい祝福の情景を指すのでしょう。母と子はセットで神の栄光を輝かせるのであり、「大切な相手との関係性」こそが栄えある姿の基本なのです。

まさにローマは聖母マリアと御子イエス・キリストとが神からの祝福を受けて輝く姿であふれかえっています。聖母子をともに記念する教会が多数ひしめき合っています。しかも、20世紀になって小教区現場の活動を盛り上げるために巨大な扶助者聖母教会も建立されており、静かに祈るための古い大聖堂とともに実際に大人の信徒たちや子どもたちが連携して活発に信仰を学びつつ愉しむグラウンドも併設されています。古い伝統と新しい現場の活動拠点とが渾然一体となって、キリスト者の精神性を高めています。

あの二年間は、いまとなっては佳き想い出です。ちょうど教皇ヨハネ・パウロ2世による2000年の「大聖年」の準備の呼びかけのときと重なり、国際神学院の建物も改修するとのことで、一年おきに引っ越しさせられて(二年目はローマの地元のサレジオ会の普通の活動修道院としての「教皇ピオ11世支部」[ピオ・ウンディチェジモ]に異動となりました)、荷物運びに苦労したこともあり、勉強時間がどんどん削られつつも修士論文を仕上げねばならず、同時に博士課程の基礎科目をも修了させることにも追い立てられて「静かに研究だけに専念したいのに、荷物運びや頻繁な移動がつづくので困る」と不満をいだきつづけた次第です。しかし、いまは懐かしい想い出です。苦労も多けれども、なかなかに「栄える」生活だったのは「玉座の聖母子」の姿の意味を味わう観想が積み重なったからです。神の祝福を受ける私たちの栄えある姿を聖母子の図像が想い出させるわけです。

トラステヴェレ地区の下町特有の人情味あふれる人間たちの生活も魅力的で、トマトをくり抜いて中にトマト味かつオリーブオイルで炒めたリゾットを詰め固めて焦げるまで焼いた独特な惣菜も毎日いくつも購入して歩きながらほおばりました。絶品です。あまりにもおいしいのです。日本に帰国後に探しましたが、まだ見たことがないのが残念です。

あの地区の軽食屋にはメニューがなくて、「大将、今日、一番うまい料理を!」という掛け声で注文すると、毎回独自の料理が出てきました。何が出てくるのかはわかりませんが、料理人に信頼してまかせきると、ほんとうに見事な好みどおりの作品が運ばれてくるわけです。気楽なてきとうさが的確さでもあるのです。相手に信頼して気楽に生きることが、イタリア流の神との関わり方であり、隣人との付き合い方なのでした。

さらに、長方形の巨大な鉄板の上で焼かれて、切り売りされているピザを思い切って数枚買っても格安すぎで、「こんなに安くて店はもうけがないのでは?」と心のなかで心配したほどでした。とにかくトマトとオリーブとたまねぎの調和がすばらしいピザでした。

なお、テスタッチョの国際神学院のそばの路地には豊富な種類のフルーツのジェラートを食べさせてくれる店があり、毎日通いました。子どもから高齢者まで、あらゆる世代の地元民が気楽に会話をつづけて、いくつもの組み合わせを編み出して「こっちがおいしいんだ!」とかまびすしく述べ立てて競争する光景が滑稽でした。

隣の店舗はオシャレな書店で、ぐるぐると何度も店内を往復して奇抜なデザインの単行本を探すのも、よい気分転換となりました。一位は、よしもとばなな氏、二位が三島由紀夫氏、三位が大江健三郎の小説で、流れるようなイタリア語訳で人気でした。

さらに隣には小さな映画館もありましたが、これ以上イタリア語のシャワーを浴びるのに辟易して入らずじまいでした(仲間のフィリピン人司祭たちは毎日映画漬けのようでした=語学学習という大義名分による)。

その近くには中華料理屋があり「ジェラート・フリッタ」(アイスクリームの揚げ物)という品目があり、人気を博していました。熱々の衣の内側に冷たいジェラートが内蔵されているわけです。どうやって作るのかは謎でした。

小学六年の2月に教皇ヨハネ・パウロ2世の来日をテレビで観て影響を受け、助祭時代から新司祭の時期にはローマで同教皇の呼びかけによる2000年の「大聖年」準備のあわただしい空気を経験しましたので、12歳から30歳までの18年間も教皇ヨハネ・パウロ2世によって人生を左右されることとなったわけです。同教皇の紋章にも聖母マリアのしるしが刻まれています。御子イエス・キリストから照らされて「栄える」のは聖母の特長なのであり、その輝きを尊い出来事として感謝して受け留めて生きたのが教皇ヨハネ・パウロ2世だったのでしょう。

 「はえる」は「栄える」のほかに、「生える」という意味もあるのですが、今回は省きます。実は、広報担当の田門さんから『コムニオ』巻頭言の依頼の紙を手渡されたとき、はじめはテーマが「ほえる」かとおもいましたが(老眼のゆえに)。ほんとうは「ほえる」について書きたかったです。教皇レオ14世は「ライオン」という意味の五世紀の教皇大聖レオ1世の力強い指導力にもあやかって、その聖遺物を教皇十字架ペンダントの裏側に埋め込んでいるわけですし(他に聖モニカと聖アウグスティヌスや三人のアウグスチノ会の司教たちの聖遺物も埋め込んであります)、「ほえる」ライオンとしての勇ましい指導の意義を論じたかったです。19世紀から20世紀にかけて在位して95歳で人生を終えた教皇レオ13世もほえまくって社会改革と霊的改革と「イエスの聖心」の信心の普及に力を尽くした指導者でもあり、聖ジョヴァンニ・ボスコは「イエスの聖心の大聖堂」を建立するようにその教皇から命じられて寿命を縮めて金策に走り回り、死ぬ思いで大聖堂を完成させた経緯もありましたので。さて編集部からほえられないように、ここで筆をおきます。