今日の四旬節第3主日は、「回心の呼びかけ」がテーマです。回心とは、何でしょうか。回る心と書く「回心」は、キリスト教の造語です。神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験です。「回心」は、一般的な「改心」とは全く異なります。それは回心が単に「心を入れ替える」とか、「悪い考えを改める」といった倫理的なものではないからです。
四旬節に求められる回心は、文字通り心の方向転換です。自分自身を深く見つめ直し、自分中心の生き方から神中心の生き方に方向転換することです。つまり神を求めて生きることです。そしてそれによって、私たちは新たな心で生きることができます。

多くの人は、神を求めていると思いますが、単に、求めるだけでは足りないでしょう。神を求めるとは、片手間で都合のいいときだけミサに来て、祈れば十分と考えがちですが、特に私たちキリスト信者は、回心したものとして、求めるだけでなく、追求する生き方を選ばなければなりません。神を追求するとは、人生をかけて、自分の生き方をもって神を求めることです。
聖書に金持ちの青年の話(マタイ19.16-22)があります。彼は人生を真剣に生きていました。しかし、イエスはこの青年に対して「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから私に従いなさい」と導かれます。でも彼は悲しみながら立ち去っていきました。
人間の幸せとは何でしょうか。永遠の命を得ることです。青年もそれを求めていましたが、追求しようとは考えていなかったと思います。富を手放せない心があった彼は、自分のすべてをかけて求めていくことができなかったからです。

私たちは本当の幸せを手にするためにすべてをかけているでしょうか。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19.24)というイエスの厳しい言葉は、多くの人が片手間で幸せが得られると考えているからではないでしょうか。
使徒ペトロたちは「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」(マタイ19.27)と言いました。それに対してイエスは永遠の命の約束をしています。
確かに使徒たちは、自分の命をかけて最後までイエスに従っています。彼らの生き方は、私たちに足りないものが何かを教えてくれています。それは「覚悟」です。
イエスのために失うもの、捨てなければいけないものが私たちにも必ず出てくると思います。そのときにそれを手放す覚悟を常に私たちは持っていなければならないということです。そしてその覚悟というものが「回心」の歩みへとつながっていくのではないでしょうか。

              主任司祭 西本 裕二