ヨセフ中田正一郎師による四旬節黙想講話のご報告

2026年3月15日10時10分より、サレジオ会副管区長、サレジオ神学院副院長 ヨセフ中田正一郎師をお招きして四旬節黙想講話が行われました。

要旨

サレジオ学院では、「朝の放送」というものが行われています。ある時、「弱いロボットの思考」というものを紹介しました。ロボットというものは、人間の役に立つことを求められます。しかし、この研究では、ロボット自体では使命を果たすことができず人に助けを求めるのです。その弱さが周りの人の強みを引き出し、つながりを生み出すというのです。お互いの価値を認めることで世界は拡がるのではないかという考え方なのです。

同じように「わたしは弱い時にこそ強い」というパウロの弱さに注目してみたいと思います。

この逆説は十字架の光の中に見出すことができます。私たちにとっての「弱さ」とはなんでしょうか。具体的に思い出してみましょう。

次に、偉大な宣教者であったパウロの人生についても思い巡らしてみましょう。パウロがいなければ今日のキリスト教は存在しないでしょう。しかし、彼は何度も投獄され追放され、死に直面しています。「神は、わたしに、一つのとげを与えられた」ともいっています。ひどい讒言や誹謗中傷にも晒され続けました。どんなにパウロが祈っても、神は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と応えるだけです。そこでパウロは、自分の弱さと、イエスさまの十字架を彼の中でつなげて考えたのだと思うのです。イエスさまの架けられた十字架は、敗北や失敗、恥の象徴といえます。当時の死刑の道具ですから非常に残酷です。けれども信仰の目、神の目から見た場合、救いの力、愛の顕れ、愛のシンボルとなるのです。だからパウロは、「十字架の言葉は、滅びる者には愚かなものですが、救われる私たちには神の力です。」といいます。神は愛で救う、そしてその愛は十字架の形をしているのだということこそ、キリスト教の根幹にあるものです。

マザー・テレサもまた、弱さの中で神により頼み続けたひとりです。彼女は、神の不在に苦しみ、長い暗闇の中にあった時も貧しい人々の中にイエスを見つけようとしています。

ここで少し時間をとって、自分の人生を振り返ってみましょう。挫折の時、辛い体験の時、神の働きがあったかどうか黙想してみてください。

私自身も挫折の体験があります。イタリア留学の際、勉強の仕方に迷い、あまり理解できていませんでした。しかし、ある時先輩にアドバイスを求めたことをきっかけに不安や頑なさから解き放たれたように感じました。自分自身を鎖で縛っていたのです。また、司祭として、この道を進んで行けるのか悩んだこともありました。その時も長上に相談し、神さまに任せてよいのだと思うことができました。弱さを出すこと、見せることで挫折を乗り越えることができたのだと思います。

ヨハネ・パウロ2世も「私は十字架から降りない」とメッセージを発しました。年老いて病身であっても自らの弱さから目を逸らさず、身を持ってその愛を世界への証としたのです。

ドン・ボスコの母、マンマ・マルゲリータも、人は自分の満足を優先させる弱い存在だと知っている人です。不幸な子供たちの母として働いていた彼女ですが、子どもたちの行動に我慢ならなくなった時がありました。しかし、十字架を見上げて自分の方向性を転換しています。それは、神の無限の愛なのか、無条件の赦しなのか。私たちは弱さを抱えた人間として十字架に何を見出して行けるのでしょうか。

聖年の間、多くの巡礼が企画されました。私もお手伝いしたのですが、巡礼という時間を共有することが、それぞれの十字架を抱える方々にとって、重荷を降ろす機会となっているのだと気づきました。また、自由になる時間であり、軽くなった軛を背負い直す力を与えられる場所でもありました。イエスさまがそこに働かれていることを感じました。まさに、十字架の後には復活があるのだと示していたのです。

希望に生きるための三つの道についてお話しいたします。

①私たちの弱さ、抱えている十字架を神に差し出しましょう。お任せし、イエスさまと共に生きてゆくのです。

②十字架から逃げないことです。苦しみを呪いの元としないで、祝福に変えて行きましょう。背負わなければいけない十字架だからこそ神は働かれるのではないでしょうか。

③神は既に働いています。そのことを信じることが、強さと希望につながります。私たちの弱さの中でこそ神は働かれます。私たちの背負う十字架を通して神の力が現れ、その向こうには復活が待っています。

私たちは、四旬節を過ごし復活の準備をしています。聖週間を通して、主の受難から復活へと聖なる過越しを共に歩んで参りましょう。同時に私の受難、私の復活も、それぞれが体験してゆけたらと思います。

お祈りで終わります。