記憶に生々しいことだが、新型コロナが猖獗(しょうけつ)を極めた5月、「自粛警察」といった言葉が巷で使われ出した。自分は一生懸命、政府の出す指令や勧告を忠実に遵守しているのに、「彼らはどこ吹く風」といって、平気でマスクもせず、夜遅くまでカラオケや飲み屋で遊び呆けているのは、まかりならん。あるいは、いま、こんな時、食堂を営業するのは自粛しろと警察まがいの意見を出す輩が私たちの傍にいる。いや、私たち自身ではないだろうか。

イエスの時代にもファリサイ派の人びとが、ルールを守れない収税人、娼婦、に対して、厳しい裁きをしていました。他の人びとをその職業や生活状態で外見的に判断し、自分たちとは違うと区別して裁いていたのです。いつも人を見て、裁き、あの人は汚れていると判断したのです。その前提、土台となっているのは、自分はルールを守っているという自信です。しかし、言えることは、それは外面的なルール遵守で、自分の内側を見ていないということです。これを偽善者的な信仰です。私たちは彼らとは違う。要するに、自分は一生懸命しているのに、他の者は、グループの中の他の人は、いい加減に手抜きで遊び呆け、しかも要領がよい。面白くない。不満が高ずると自称警官が生まれる。誰しも陥る落とし穴である。「主よ、誘惑に陥らせず、悪より救いたまえ」。

主任司祭 長澤幸男

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