助任司祭 土屋 茂明
2月11日、カトリック教会では「ルルドの聖母」の記念日です。
明治維新の10年前、1858年2月11日にルルドで聖母がご出現されたことを記念する日です。その頃、ヨーロッパでは、無神論と科学万能の考え方が勢いを得ていました。自然を超えた世界の存在を人々に悟らせるために、神がなさった奇跡なのでしょうか。ルルドは神が聖母を通して与えられる絶えざる恵みの泉となりました。のちに、ノーベル賞を受けた偉大な科学者アレキシス・カレルが、神を見出し、深い信仰に導かれることになったのも、そこルルドにおいてでした。
ピオ9世教皇が「マリアの無原罪の御宿り」の教義宣言をなさったのは1854年12月8日でした。トリノのドン・ボスコの学校でも、盛大にお祝いをし、ドン・ボスコは聖母マリアに対する特別な賛美歌を生徒たちに歌わせて、喜びを分かち合ったのでした。
ドメニコ・サヴィオは熱心な、聖母に対する信心の持ち主でした。やがてドン・ボスコの期待に応えて、良い学校づくりに皆で力を合わせようと志す生徒たちが、一つの会を結成することになりました。ドメニコはその会の名を「無原罪の聖母信心会」(Compagnia dell’ Immacolata Concezione)としようと提案し、会則も起草したのです。
ドン・ボスコはその会則を見て、大変驚きました。会則は簡単なものでした。会員は校則を良く守り、良い手本を示して、良い校風を作り上げること、たびたび熱心な聖体拝領をすること、無原罪の聖母マリアへの愛を深めること、神の恵みを失うことのないように常に清い心を保つことなどでした。
この会を立ち上げたのは1856年6月8日のことでした。会長にはミケレ・ルア少年が選ばれました。このルア少年こそ、ドン・ボスコの傍らにあって、その活動を支え、ドン・ボスコの後継者となったドン・ルアです。(1972年列福)
信心会を立ち上げた翌年の1857年3月9日にドメニコは亡くなりました。享年15歳。若くして亡くなったドメニコですが、ドン・ボスコとサレジオ会にとって、偉大な存在だったのです。
「無原罪の聖母信心会」からは、ルア少年ばかりでなく、多くの少年が、のちのサレジオ会のメンバーとなっていったのです。そして、ドン・ボスコがすぐに書き上げて、広く若者たちに紹介したドメニコの伝記は、多くの人々を聖性への道に導いていったのです。
聖ドメニコ・サヴィオの無原罪の聖母マリアへの奉献
1854年12月8日。ピオ9世教皇はこの日に聖マリア無原罪の御宿りの教義を宣言しました。ドメニコ・サヴィオはヴァルドッコにあるサレジオの聖フランチェスコ(フランシスコ・サレジオ)教会の聖母の祭壇の前で、初聖体の決心を新たにした後、聖母マリアに奉献します。
聖母マリア、私はあなたに私の心を捧げます。
それをいつもあなたのものとして下さい。
イエスとマリア、あなた方がいつも私の友でいて下さい。
そして私が、ただ一つでも罪を犯すような不幸に陥るよりも、
むしろ憐れみをもって私に死をお与え下さい。