さる主日の夜のミサのことでした。奉納の時になりましたので近くにいた方にお捧げするようにとお願いしたところ、その方はもじもじとしてなかなか動きません。祭壇下で司祭が待っていましたので、再度促したところ、「私はここの教会の者ではないのですが」と答えます。それでも強引に務めを果たしてもらいました。私はこちらの教会で日が浅く十分に皆さんと交わることも出来ず、お一人お一人を覚えているわけでないし、まして、今日はよその教会の信者さんがどれぐらいおいでになったかと数える興味もありませんが、よその教会でミサに参加しているのだという意識は信者さんの中に、何らかの影響があるのだなと感じました。
私は、周りの人とコミュニケーションを持つのがどうも下手で、自分の性格や生き方のマイナスをおおいに感じています。考えてみると家庭の事情や、戦争のため転居、転校が度重なり、周りに馴染むのが下手のまま成人してしまったことによるのだと思っています。今までのところで慣れ親しんでいた生活習慣、環境、交友関係などを新たなところでまた始め直すと言うことは並大抵のものではありません。私の場合は、少なくとも日本と言う範囲でありましたので、自然や周りの人々、言葉などについての強烈な変化はありませんでしたが、それでも交わり、コムニケーションという面ではおおいに難しさを感じています。
現代はグローバル化の時代で、積極的な異文化体験、多国籍人との交わりがごく当たり前になってきていますが。それでもお互いが心を割って一致するのは生易しいものではないと思います。今年の「世界難民移住移動者の日」のテーマは「文化間の統合」です。
教皇様は「統合というのは、移住者が自らのアイデンティティを抑圧され、忘れ去ってしまうような同化を意味しているのではありません。実際に次のことは避けねばなりません。一つは異なる人たちを自分たちと同化してしまおうとすることであり、もう一つは隔離につながりかねない移住者の排斥です。とるべき道は、移住者と当地の人の間にある違いに眼を向けるのではなく、開かれた態度による正当な統合の道です。」(本日の教皇メッセージ 中央協議会ホームページ参照)
このために求められることは、何といってもお互いの心からのコミュニケーション、話し合い、分かち合い、理解し合いという「会う」と言うことだと思います。今日、全世界の人々と共に祈りながら、真の意味での「文化間の統合」を目指したいと思います。