11月の死者を記念する月を前に、今日わたしたちの教会では、亡くなった方々を思い起こしながら追悼の祈りを捧げます。昨年の追悼の日から、わたしたちの教会の関係者で亡くなられた方が12名おられます。その中には90歳を超える長寿を全うされた方もおられますし、わずかの日数を一途に生き抜いて神様のもとの召された幼い児もいます。また、人間としても家庭においても恵みに満たされた幸せな生活のうちに、突然の病に倒れ、神様のもとに旅立っていった方々もおられます。
亡くなられた方々を思い起こすときに、信仰者としての慰めと力付けを忘れてはなりません。イエス様が高らかに宣言された言葉をわたしたちは信じています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はすべて、永遠に死ぬことはない。」(ヨハネ11,25)どれほど慰めに満ちた言葉でありましょう。そのためにこそ、わたしたちは生き続けることができますし、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通ってでなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14,6)と教えられ、わたしたちの人生の道を確かなものとしてお示しくださいました。この復活されたイエス様への信仰に固められ、先に神様のもとに召された方々を思い起こしながら、わたしたちも信仰の喜びが固められて、その道を歩み続けているのです。
わたしたちは今年なくなった方々を、特に思い起こしながら祈るとともに、多くの方々から寄せられた、諸死者をも思い起こしたいと思います。その方々の名簿は、ミサ聖祭を捧げる祭壇の上に置かれて、司祭と信徒の祈りの意向として神様に捧げられます。故ヨハネ・パウロ二世教皇様は、その遺言書に「どれだけ多くの人をわたしは数え上げなければならないであろう。おそらく主はその大部分の人を、みもとに招いておられるであろう。」と述べて、先に神様のもとに召されたであろう多くの方々を祈念しています。わたしたちも、それぞれの信者が自分に関わった方々を思い起こしながら、ともに今日の追悼に日を迎えます。お互いのために祈りたいと思います。
聖パウロは「わたしは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。生きるにしろ、死ぬにしろ、わたしたちは主のものなのです。死んだ人にも生きている人にも主となるためにこそ、キリストは死に、そして生き返られたのです。」(ローマ14,8-9)と述べています。わたしたちの生きる喜びと、使命がここに凝縮されています。