教会に通いだして間もない頃、その頃は今のような対面ミサでなく、祭壇を聖堂の一番奥にしつらえ、司祭は信者に背を向けながらミサ聖祭を捧げていました。ミサ中司祭はしばしば信者の方を向いて手を広げています。最初、私はその動作がてっきり信者がどれぐらい集まっているか、遅れてきた人がどれぐらいかを数えるためにしばしば振り返っているものだとばかり思っていました。今でこそわかるのですが、「主は皆さんと共に」、「また司祭と共に」と言う、ミサの重要な部分の時の信者への呼びかけでしたが、当時の私の典礼的知識はそれぐらいでした。ある時、神父様が「ミサの終わりの祝福を与えたあと、祭壇のほうを向きなおってから、(当時はそのあとヨハネ福音の数節が読まれていました。)祭壇を降りようとしてふと見ると、もうだれそれの姿が見えなくなっていた。」と話していました。教会に詣で、ミサに与るという信者の務めは果たしているのですが、聖体拝領をし、祝福を受けただけで、ほかの信者さんに挨拶するでもなく、交わるでもなく、そのまま帰ってしまう信者がいました。
その後の教会改革によって、典礼ばかりでなく、教会共同体の考え方もがらりと変わり、「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である。」(教会憲章1)という考えに基づき、神との親密さを人々との交わりのうちに表そうと努力を続けているのです。主日のミサ聖祭の諸部分に、どれほどこの精神が満ち溢れているかがわかります。ただ、司祭と侍者のラテン語による受け答えだけで進行していたミサが、信者の積極的参加によってより豊かなものになってきました。その部分を良くわかればわかるほど交わりの深い意味が理解され、よりよく祈ることができるのです。
教会共同体のメンバーが種々の犠牲を捧げながら、いろいろな形でかかわり、準備してきたバザーの真の目的もここにあります。バザーを実施することによって「親睦と交わり」を深め、一致して教会共同体が神との親しみ、交わりを深めてながら、信仰の喜びを表明していくのです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1,31)とあるように、わたしたちが今日かかわるあらゆるものは、形ある色々な品物などです。その作られたものを媒介として人々と交わり、親睦を深めていく一日であってほしいと思います。
「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリッピ書2,1~4)