わたしが始めて外国の地を踏んだのは、忘れもしないクリスマス・イブにイスラエルのテルアビブ空港でした。当時はテロの恐怖はありませんでしたが、一日本人青年がその地でライフルを乱射する事件のあった直後でしたので、検問と警戒は大変厳しいものでした。幸い夜半のミサをご降誕教会で預かるというのでバスに乗って出かけましたが、途中真っ暗な路上で何度も止められ、ライフルを持った兵士がバスまで乗り込んでの検問には度肝をぬかれました。バスから降り、暗い道を迷わないように前の人に付いていくのが精一杯の中で、ふと見ると前の修道院の建物の屋上にはライフルを構えた兵士のシルエットが満点の星空にくっきりと浮かび上がり不安はこの上なく高まってきました。クリスマスの深夜ミサをちょうどご降誕教会で参加できたという思い出の多いはずですが、どのような祈りの心であったか思い出すこともできません。異国での不安なクリスマスの忘れ得ないことだけが残りました。
その翌日クリスマスの当日、同じご降誕教会を再び訪れ、ゆっくり祈ることができました。明るい日差しの下、昨夜とはうって変わった落ち着いた雰囲気で、教会を出て広場でたむろしながら、心も落ち着いて辺りを見回し、昨夜の恐怖にも似た不安の現場を眺めました。あそこが身体検査を受けたところ、あの小屋に所持品を置かせられたのだな、あの屋上からライフルを持った兵士が監視していたのだな等と見ていくと、すぐそばにライフルを抱えた兵士がパトロールしながら私たちの方を見て微笑んでいます。皆で近寄って言葉は通じませんが、お互いが信頼しきった雰囲気を醸しだしていました。わたしは身近にライフルをみるのは初めてでしたので、好奇心からそっと触れさせてもらいました。昨夜なら到底そのような行動に出るゆとりもなかったことでしょう。
戦後間もない頃、ニューヨークの有名なフルトン・シーン司教様は「聖フランシスコの持っている原子爆弾より、自分をコントロール出来ない人の持っている小刀の方が恐ろしいのだ」と述べられたことを思い出しました。第二次大戦後、日本ではいわゆる戦争体験はありませんが、いつの間にか私たちの中に「信頼」というものが失せた時代になってきたようです。自分をコントロールしない人間はいつ爆発するかわかりません。
飼い葉桶で眠っている幼児イエス様は両手を広げマリア様とヨセフ様にすべてをゆだね、信頼しきった姿を示して下さっています。一人ひとりが身近なところで人間関係の信頼を回復して、闇から光に移り、神に向かって自己を高めるように新たな決心をしたいものです。