「ついて来なさい。そうすればわかる。」

アイキャッチ用 小坂神父の今週の糧

洗礼者ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と指差す方を歩まれる主について行った弟子たちは、「先生、どこにお住まいですか」と尋ねるのがやっとでした。イエスは「ついて来なさい。そうすればわかる。」と答えられ、後に従った弟子たちはその日はそこに留まりました。(ヨハネ1・36参照)福音書の中で非常に印象深く、心に残っているくだりです。

主はいつの日か、あなたがたに「ついて来なさい。そうすればわかる。」と声をかけられたことでしょう。イエスに従い、「他のキリスト Alter Christus 」として、今、主の祭壇で十字架のいけにえを捧げることになりました。今こそ「そうすればわかる」と言うイエスのみ言葉が実現されることになりました。そしてパウロのことば「生きているのは、もはやわたしではなく、キリストこそわたしのうちに生きておられるのです。」(ガラティア2・20)をこれからの日々、生き抜いていくことになりましょう。

ドン・ボスコの母マンマ・マルゲリータは学のない農家の主婦でしたがそこのところをわきまえていました。ドン・ボスコが郷里で初ミサを捧げた夜、しみじみと諭しています。「ジョバンニ、お前は司祭です。イエス・キリストさまにいっそう近い者になったのですね。でも、このことだけは忘れないでほしい。ミサをささげ始めるということは、苦しみ始めることなのですよ。そのことが今すぐわからなくても、これから少しづつ、お母さんの言ったことが本当だったとわかってくるでしょう。」(ドン・ボスコ自叙伝注19p・339)

昨今、司祭の減少が言われています。これを主日の務めを果たそうとする信徒に不便をきたすとか、そのための司祭の多忙とかの観点からとらえようとすれば誤ってしまいます。「来てみなさい。そうすればわかる」と言うキリストの言葉が実感され、聖パウロの指摘する「キリストが生きる」司祭の崇高さを実感できない社会になっているのかも知れません。主は、最後の晩餐において「わたしを記念するために、これを行ないなさい。」(ルカ22・19)という荘重な命令を教会に残し、今日あなた方のうちにその重大な使命を全うすることが実現したのです。

「キリストの十字架のいけにえ」を現実に捧げることができるようになったことを心よりお祝い申し上げます。これから日々捧げるミサ聖祭はキリストの言葉に忠実のあかしとなりますように。今日の初ミサと同じ心で捧げますように。そしてこれが最後のミサであるかのように捧げてくださいますように。教会共同体もせつにこれを願っています。それとともに「ついて来なさい。そうすればわかる。」というキリストの言葉が多くの若者のうちに芽生えていくように祈ってください。

主任司祭 小坂正一郎

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