日本の殉教者たちと天国(No.7)

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

1867年7月(新暦)から11月までの約5ヶ月間に、28人中16名が改宗し、津和野川でミソギをし、鷲原八幡宮に詣でてお神酒を受けさせられました。そして法心庵という尼寺に移されました。それからは「白米五合・半紙一枚・お菜代銭71文」が毎日与えられ、村に出て働き日銭を稼ぐことも自由に出来るようになりました。しかし、改宗しない12人に対しては「説得につぐ説得」を続け、自分たちの面子に懸けても陥落させようと、役人たちは努力するのでした。

そのために有効と考えられたのは「三尺牢」でした。池田敏雄師の著「津和野への旅」によると、「約90センチ立方の狭い牢屋で、屋根には物品の差し入れのために小さな穴があいている」ものだが、窒息する心配はないが、立ったり両手両足を伸ばしたり出来ず、自らの糞尿の中でうずくまり、飢えと寒さの中で死を待たせる「拷問の機械」と言えるものであった。

1868年その牢に最初に入れられたのは、26歳の和三郎であった。彼は20日間も頑張り通したが、彼のために祈りで支えたり、光淋寺の床板を天保銭をかわらで磨いて鋭利な刃物としたもので、時間をかけてはがしてようやく作り上げた秘密の脱出口から、深夜に抜け出しては慰めに行った仙右衛門たちの励ましに負うところ大であった。流石の彼も病気になり、江戸の鈴ケ森で殉教できないことを、無念に思いながらも三尺牢の中で、殉教者としてその魂を父なる神に捧げたのでした。

その後1869年この三尺牢に入れられたのは、30歳のヨハネ・バプチスタ安太郎であった。彼は謙遜で自分のことより周囲の人を大切にし、なけなしの自分の食べ物を人にまわしたりしていた。また「聖母マリア」に対する信心の熱い青年でした。「甚三郎覚書」には、夜中牢を抜け出して陣中見舞いにいった仙右衛門や甚三郎に言った安太郎の言葉が記録されています。「・・さみしゅうございません。12時よりさきになりますれば、あおい着物にあおいきれをかぶり、さんたまりあさまのごいえの顔立ちににております。その人が物語りをいたしくださるゆえ、すこしもさむしうはござりませぬ」と。

私が乙女峠が好きなのは「マリアさまが殉教者と一緒にいたいと思われたその母としてのこころ」が好きなのです。

主任司祭 田中次生

☆「お詫びと訂正」乙女峠の殉教者たちは、今度の188人の福者の中に入っていませんでした。私が勝手に入れて一人で 喜んでいたのでした。訂正しお詫びします。☆


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