日本の殉教者たちと天国(No.8)

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

和三郎・安太郎が殉教して、残りの不改心者は10名になった。その中で一番若かったのは国太郎の二男で、23歳の守山甚三郎であった。1867年の「浦上四番崩れ」の時は、68名が拷問の末改心し帰宅を許されたが、その中にこの甚三郎もいた。そして「天主を棄てた」ことが悔しく自宅にも村にも帰れず「改心戻し」の仲間を募り、38名が連名で庄屋に届け出た過去の苦い経験を持っていた。

毎日のように役人に呼び出されて説得された。それも昼夜区別なく、わずかな食料で空腹に悩まされ、また真冬の凍て付くような夜、夏の単衣一枚で座り、説得する側は3人(千葉・森岡・金森)交代で山海の珍味に囲まれている中での説得は、肉体的にも、精神的にも極限状態の中での説得といえた。

しかし甚三郎は頑として、説得をはね返した。で仕方なし役人たちはリーダーの高木仙右衛門と甚三郎が見せしめのために氷の張っている池に全裸で突き落とし、何回も冷たい水を頭からひしゃくで浴びせられたりしました。それでも効果がないので、父親の国太郎たちも「氷責め」にした。そして役人たちは甚三郎の情に訴えた。「お前の父国太郎に改宗を説得したが、“そんなことをすれば、頑張っている甚三郎に申し訳が立たない”と言っている。お前さえ改宗すれば、父親も生きながらえるのに……」と。しかし彼は「もし父が改宗すれば、その分だけ余計自分が頑張るだろう。しかし父が信仰を守っているのなら、父と一緒だから自分だけ裏切れない」と答えるのでした。

この時のことについて、仙右衛門、25年後ビリヨン神父に次のように語っています。「神父様、津和野にいらっしゃるのですか、私は3時間もつづけざまに、何回となく氷の張り詰めた池に沈められ、力の弱った時に引き上げられましたが、その小さい池をぜひ見にいらして下さい。しかし神様は大変良い方です。私がこれ以上苦しみを感じなくなったとき、聖母が私を慰めに来て下さいました」
マリア様はイエス様の時と同じく一人一人の殉教者たちの十字架の下にも立って下さったのです。お母さんなのですから……

主任司祭 田中次生

☆「お詫びと訂正」乙女峠の殉教者たちは、今度の188人の福者の中に入っていませんでした。私が勝手に入れて一人で喜んでいたのでした。訂正しお詫びします。☆


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