17)天国の位

1週間前に臨終洗礼を受けた人のご家族から「お祈りに来て欲しい」と言われました。せっかくですから秘蹟「病者の塗油」を授けました。ほとんど意識が無いような状態でしたが、それでもご家族は非常に喜んで下さいました。その話を他所の修道院でしたら、こんな意見が返ってきました。「洗礼で心がイエス様のお恵みで一杯なので、今更病者の塗油等要らないのではないか?」と。私はすぐさま反論しました。「秘蹟である以上、絶対にイエス様のお恵みが与えられる。お恵みは沢山あればあるほど、天国での位(?)が高くなるはず。天国では今日の方が良い席に着いているのに、まぁ田中神父様も一生懸命にしているから指定席のS席だろうが、あなたは天国の入り口に近く、冬にでもなれば小雪交じりの北風が吹きこんで来そうな場所が与えられても、知らないからネ!!」そしてしばらくは、皆それぞれが「このメンバーの中では自分が天国では一番良い席についている筈だ」と主張するのでした。

さて、私の記憶では、幼きイエスの聖テレジアの伝記の中に、「天国では、そこにいる人たちは、全員“幸せ一杯”の状態にいる」ことが書かれていました。小さな子供は小さなお弁当でお腹が一杯になり、大人が大きなお弁当でお腹が一杯になるようなもので、それ以上要らないし、満ち足りているのだというのです。(このことについては、深大寺の女子カルメル会に電話で確認しました。要理の時、お姉さんに「天国で幸せに“差”があれば、小さな幸せしか持っていない人が、大きな幸せを持っている人を永遠に羨ましく思って、ひがんでしまい、ちっとも楽しくなくなってしまうのではないか?」と質問し、先の解答で満足したのでした。このことについて(天国No.6)の 「喜ぶ人と共に」を再録します。

天国とは実に他人の喜びをそのまま素直に自分の喜びと感じるところだからです。だから、たとい私が一番下の位にいたとしても、一番上におられる聖母マリアの喜びをまったく自分のものと感じて喜ぶことになるのです。いや本当は、神の無限の喜びに私も一杯与るのです。「私たちは魚のよう、神様の愛の中で泳ぐ」のです。
松永久次郎「続・みことばの花籠」

主任司祭 田中次生
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