日本の殉教者たちと天国(No.3)

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

1597年2月5日9時半ごろ、日本26聖人(外国人6名と日本人20名)たちは、長崎の西坂の丘に到着しました。「殉教者たちは、自分の十字架に連れて行かれる、と言うより自分の十字架を求めて走りより、それを抱いた。その有様を見た人々のどよめきと悲しみの声が遠くまでこだました」と片岡弥吉教授は記録しています(『日本キリシタン殉教史』)。「わたしの十字架はどれ?」とのルドビコ茨木の言葉はあまりにも有名ですが、その隣で殉教した13才の「聖アントニオ」少年も十字架に走りより抱きついた一人でした。彼は、バプチスタ神父の隣りで、神父の指示通り「Laudate pueri Dominum 子らよ!  主をほめ賛えよ!」の詩篇(113編)を大きな声でルドビコと歌ったのでした。

彼の略歴について、池田敏雄氏師の「教会の聖人たち」は次のようにまとめています。「アントニオ少年は、バプチスタ神父が文録4年(1595年)長崎に建てたサン・ラザロ修道院へよくミサ答えに来ていた。アントニオの父は支那人、母が日本人であった。いまの長崎市天婦川町の春徳寺には、イエズス会の「諸聖人」の教会があった。アントニオ少年はここに預けられて読み書きを習い、ミサ仕えをし、のち京都へ移ったのであった。それからまもなく大阪のフランシスコ修道会で教育を受けていた。刑場では遺品として肌身離さず持っていた短刀を両親に渡し、『天国へ行ったらかならずご両親のために祈ります』と約束した」と。

他の資料によると、未信者であるご両親に、十字架上から次のような慰めの言葉を言ったことが伝えられています。

「私が十字架に掛けられたからと言って泣かないで下さい。殉教者として、私はやがて天にまします神様におめにかかります。天に昇っても父上と母上のことを決して忘れません。どうぞお泣きにならないで、気を確かに持ってお喜び下さい。」

主任司祭 田中次生

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