日本の殉教者たちと天国(No.5)

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

今年の列福者188人は、14の殉教地から選ばれています。その中で私にとって一番、身近で親しく思えるのは“津和野”の殉教者たちです。理由は簡単です。私がいままで何度か津和野の巡礼をしているからです。津和野教会の主任司祭だったイエズス会のホルバート神父様とは随分親しくして頂ました。ある年のお正月に司祭館に泊めていただいた時、二人で祝杯を傾けながら、乙女峠の殉教者たちをもっと全国の人たちに知ってもらい「信仰のお手本」にすべきなのではないかと深夜まで話し合いました。そして「乙女峠殉教者友の会」を結成する必要があるとの結論に達しました。そして私はつい調子にのって「ホルバート神父様“友の会”が結成される時には、その会員番号“No.1”の名誉をぜひ田中神父様にプレゼントして欲しい」とお願いしました。一年ぐらいしてそんなことを頼んだのもスッカリ忘れていた私に、ホルバート神父様は、律儀にも「乙女峠殉教者友の会」の会員証No.1を送って下さったのです。20数年も前の話です。しかし残念なことに何回かの転勤(5回)で、どこでどうなったのか、私の手元にはありません。証拠品がないので信じてもらえないかも分かりませんが、乙女峠の殉教者的な私の顔を見れば、ご理解していただけるでしょう。

1865年2月、長崎に大浦天主堂が建堂され、3月17日「サンタ・マリアの御像はどこ?」とプチジャン神父に質問して、200余年に亘って信仰を守り通したキリシタンたちが発見されたのでした。禁教令の続く中、でも信徒たちは秘蹟に与り、神父から直接にくわしく教理を学ぶことが出来て、少しずつ信仰においても成長していきました。

さて、乙女峠での殉教は「浦上四番くずれ」と言われるものです。1867年4月の「埋葬事件」がその発端になりました。浦上の信者たちは、自分たちはキリシタンなので、これからはキリスト教によって葬式を行うから、形式上檀家となっていた聖徳寺と縁を切ると、庄屋に宣言したのです。これがきっかけで6月にから浦上の信徒3380名が各地の藩に流罪処分され、その中で153名が津和野に流されたのでした。

主任司祭 田中次生

おすすめ記事