日本の殉教者たちと天国(No.2)

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

1597年1月19日、長崎の日本26聖人の殉教者たちの一行は、毛利輝元の三原にいた。そこで、14才のトマス小崎は見張りの役人たちの親切で、母親に別れの手紙をこっそりと書くことができた。

「神の御助けによってこの数行をしたためています。長崎に処刑されるためにそこに向かう神父様と私たちは、先頭に掲げた宣告文の通り24人です。私のこと、またミゲル父上のこと、ご心配下さいませんように。パライソ(天国)ですぐ会いましょう。お待ちしております。たとえパードレがいなくても、臨終には熱心に罪を痛悔し、イエス・キリストの幾多のお恵みを感謝なされば、救われます。この世ははかないものですから、パライソの全き幸福を失わぬよう、努力なさいますように。人からどんな迷惑をかけられても耐え忍び、全ての人に大いなる愛徳を施されますように。私の二人の弟、マンシォとフェリペをどうか異教徒の手に渡さぬよう、ご尽力下さい。

私は母上のことを我らの主にお願い致しましょう。母上から私の知っている人々に宜しく申し上げて下さい。罪を痛悔するのを忘れぬよう、再び重ねて申し上げます。なぜなら唯一の重大なことなのですから。アダムは神に背き罪を犯しましたが、痛悔とあがないによって救われました」十二番目の月二日(1月19日)安芸の国三原城にて

父ミゲルは、弓矢作りの職人だったが、大工の知識もあり、教会建立の時は率先して働いた。この手紙はその父ミゲル小崎に(46才)に託されたが、京都に届ける術がなく、ミゲルは、これを懐に持ったまま殉教した。午前10時ごろ槍で両脇を突かれて絶命したので、手紙には父親の血の跡と、たくさんの涙の跡が染みついていた。遺体はみせしめのために長い間さらしものにされたが、その後多くの人たちが「聖遺物」として持ち帰った。この手紙は、読んだ信徒たちの涙を誘った。(「ウィキペデイア」参照)

主任司祭 田中次生

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