アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

福音史家ヨハネは、マグダラのマリアについて、次のように書きます。

週の第1日目の夜明けごろ、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、石が墓から取りのけてあるのを見た(ヨハネ20:1)。マリアは墓の外に立って泣いていた(ヨハネ20:11)。み使いたちは、マリアに、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリアは「誰かが私の主を取り去りました。どこへ置いたのか、分かりません」と答えた。
イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と尋ねられた。マリアは園の番人だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこへ置いたのか、教えて下さい。私が引き取ります」と言った。

マグダラのマリアが泣いていたのは、私の主イエス様が、お墓から取り去られたと思ったからです。マリアにとってイエス様は私の主でした。だから泣くことができたのです。ベロニカという女性は、イエス様の十字架の道行きで、周囲の雰囲気におされてただ泣くばかりで、イエス様に何もすることができなかったマグダラのマリアや女性たちが後になって、一番苦しい時になぜイエス様をお慰めできなかったのかとの悔しい切ない思いにより作りだした、と多くの人たちに言われています。「夜明けごろ、まだ暗いうちに」の描写は、十字架の道行きの時に何もできなかった自分を悔しく思い、少なくとも亡くなった後のイエス様に対して、心を込めた弔いの準備をしたいとの彼女の気持ちを読みとることができます。彼女の心は私の主イエス様で一杯一杯だったのです。

「私の主イエス様」の言葉の中には、マグダラのマリアのイエス様への愛情が感じられます。イエス様を愛することにかけて、自分が一番でありたい(マリア様を置いておいて……)との気持ちが込められています。幼きイエズスの聖女テレジアもこのベロニカという女性を尊敬し、自分自身の目標にしようとしていました。彼女の言葉の中にも「私はもし地獄に落ちてしまったらそれはそれでしかたがないでしょう。しかし、地獄の底でも今までの人類の中でも一番イエス様を愛した女性でありさえすれば、私は満足します」という言葉がありますが、マグダラのマリアの気持ちに通じるところがあります。

復活されたイエス様にそういう気持ちを私たちが持つことができるように、お願いしたいものです。

主任司祭 田中次生

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