いよいよ、来週は「聖週間」です。4つの福音書とも、私たちが「受難の主日・枝の主日」として記念している「エルサレム入城」ついて言及しています。
エルサレム入城に当たって、人びとが、しゅろの葉を手に手に「ホザンナ」と叫んで歓迎したのでした。ホザンナとはもともとヘブライ語で “どうか主よ、私たちに救いを” の意味をもっていますが、ギリシャ語に音訳され、典礼では現在もそのまま使われています。イエス様のエルサレム入城の時は、ハレル “神をほめよ” として知られる詩篇113~118の最後の部分にくる25~26節の言葉「どうか主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ、主のみ名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」の賛美の詩篇は「仮庵(かりいお)の祭り・過ぎ越しの祭り」において重要な賛美の祈りでした。この詩篇の言葉をイエス様の歓迎に使ったのは、そこにイエス様に対する人びとの気持ちが現れていると言えるでしょう。
しかし、ルカ書は、「いよいよ都が近くなったとき、イエスはそれを見て、都のためにお泣きになって、こう仰せになった」と続けます。聖書の中でイエス様がお泣きになるのは、2度あります。友人ラザロが死んだ時、そのお墓の前で泣かれました。そしてエルサレム入城の時です。神の子イエス様が2度泣かれたのが多いのか少ないのかは、置いておいて、自分を十字架に掛けて殺すエルサレムのために泣かれたイエス様の「優しさ」は特記すべきでしょう。前に1度「十字架上の7つのイエス様のお言葉」について考えたことがありました。7つの言葉のうち2つが赦しの言葉なのです。前日の逮捕から「裁判・鞭打ち・十字架の道行き・十字架に釘付け」というほぼ1日がかりの連続した苦しみの中にあって、2つの赦しの言葉。私たちの心に強く響きます。
自分を十字架にかける都のために泣かれるイエス様、そして一番苦しい時に「赦しの言葉」を述べられるイエス様は、私たちに「神様の無限の愛を示し、人間の罪をあがない、赦されるため御父から遣わされた」ことを、私たちに再確認されているように思います。
イエス様ご自身の言葉です。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、おん子を信じるものが一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」と。