昨年、一粒会の総会で川村神父の「岐部神父と187殉教者」と題して講演がありました。その中で日本の教会の特徴の1つは「殉教者」だとありました。今度の188名の福者を入れると435名の聖人・福者がいますが(42名の聖人と393名の福者)、その全員が殉教者なのが特徴です。
2月5日「日本26聖人殉教者」
9月10日「日本205福者殉教者」
9月28日「聖トマス西と15殉教者」
11月24日「ペトロ岐部と187殉教者」
しかも、最初の大殉教事件である1597年長崎西坂の“日本26聖人殉教”から明治初期にいたる殉教者の数は延べ3~4万人と推定されているのです(岩波キリスト教辞典) 。また学者たちの研究によると、記録をもって裏づけできる殉教者は5000~6000人に上ると言われています。(ラウレスは4045人と記録。研究社『新カトリック大辞典』より)
同じく川村神父が『福音宣教』(2007年8・9月号)で指摘していることがあります。それは「殉教の3要件」です。これはキリシタン信徒の「覚書・マルチリオの栞」(丸血留の道)によるキリシタンが抱いていた“殉教”の概念ということになります。
第一「丸血留になる為にはし(死)つこと肝要なり」。
第二「害せらるる者、知恵分別あるものならば、其成敗を辞退せず、心能く堪忍して受くるにおいて丸血留なり」。
第三「死罪に行はるる題目、キリシタンなりとて成敗せらるるか、亦は善を勤むるとてか、悪をせざるとて害せられば是も丸血留なり」。
死罪にされる理由は“信仰とそれに基づく徳行”なのです。自分が信ずる神とその教えを自分の命をもっても、守り、証しするのが「殉教」です。キリシタンは、ポルトガル語をそのまま使い、「マルチリオ・mattyrio」「まるちる・martir」と言い、「丸血留」と当て字を使いました。日本語の「殉教」は近年の対訳造語です。“殉”は“歹”=死と“旬”=従う を合成し、昔の“殉死”=主人の死に従って死ぬことからその言葉をつくりました。それはそれで意味のある言葉です。イエス様の十字架の死に従い、イエス様の復活にも従う信徒の姿がよく表現されるからです。