列福をひかえともに祈る7週間 -「テ-マ8・教会・いのちの秘蹟」-

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

今回の188人の殉教者たちの中に、司祭を代表して4人が選ばれました。ペトロ岐部、ジュリアン中浦、ペトロ金鍔、ディオゴ結城です。その中でディオゴ結城神父に、今回は焦点を合わせます。

1574年阿波国徳島の生まれで、その後高槻のセミナリオに入学。1595年天草でイエズス会に入会し、1601年から6年間マカオに留学し神学を学んだ。1614年徳川の宣教師追放令で、高山右近等と追放先のマニラに送られた。1615年マニラで叙階され、1616年密かに長崎に戻った。

それから1636年2月25日、大阪で殉教(62歳)するまでの20年間、彼にとっては人目を忍んで旅から旅の生活が続いた。ロドリゲス・ジラン神父はマカオから1621年4月10日、1620年の年報に記事を書いている。「すでに書いた阿波国へ宣教した結城神父の、都から離れた他の国、すなわち津国、丹波、若狭と紀国での宣教が効果的であって、告解と聖体拝領とわが主への奉仕の大きな効果をもたらした。その地方は信者が多くて、皆、このような時に神父が彼らを励まし、信仰を強めるために言葉を掛けたことを非常に喜んだ。皆、強い信仰を堅固に守るために、どんな迫害が襲うとも捨てないようにできていた。受けた秘蹟と聞いた話で、今後もっと強くなるだろう(1621年4月10日)」(結城了悟著『ディオゴ結城了雪』P90)

秘蹟とは「イエス・キリストによって制定された、神の超自然の恵みを与える目に見えるしるし」です。信者達も神父達も、過酷な迫害の中、自分の命に代えても信仰を守るためには“神の恵み”が必要なことを身にしみで感じていたのです。

結城神父は畿内の唯一の神父だったので、誰も殉教の記録に残す人がいませんでした。そのため後代、信徒達の証言をポルトガル人たちがまとめたものとして伝わっています。「結城神父は穴吊りで、聖なる死を遂げ、誰にも迷惑をかけなかった。彼は取調べの時に、自分は20年前から宿主がなく、いつも森の中に住んでいて草や木の実を食べていたと答えた」

主任司祭 田中次生

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