列福をひかえともに祈る7週間 ―「テ-マ6・父である神の思いを生きる親たち」―

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父親については、昔から「地震、雷、火事、親父」と言われてきました。父親は、母親にくらべて、やっぱり怖い存在だからでしょう。父親が持つ役割の第一のものは、「子どもの価値観」を形成することではないでしょうか。

1619年10月15日、日出のバルダザル加賀山半左衛門に死刑の宣告が伝えられました。半左衛門は、母ジュスタ、妻ルチア、娘テクラに対してお別れの挨拶をし、天国での再会を誓い合いました。彼は聖画像の前に跪いてお祈りをし、妻と娘から足を洗ってもらい最上の衣服に着替えて、刑吏の方に進みでました。それを見ていた5歳のディエゴが、父にすがりついて、自分も一緒に連れていくようにと泣きました。父親は、刑場で自分が処刑されるのを見たら怖くなってあきらめるだろう、大人になって殉教すればよいのではないかと思い、ディエゴも晴れ着に着替えさせて刑場についてくることを許しました。父親は、自分がキリシタンの信仰の理由で処刑されることは最大の幸福であることを役人たちに告げ、斬首されたのでした。

父親が処刑されるのを一部始終見ていたディエゴは、父親の血に染まっている地面に跪き手を合わせ襟をただし、静かに首を差し出しました。ディエゴは「キリスト、マリア」の御名を唱えて、父半左衛門と同じ殉教の道を辿って、天国へ旅立ちました。

アウグスチノ小西行長が京都で戦死した後、キリシタン王国南肥後は、熱心な日蓮宗の加藤清正の支配するところとなりました。当然、迫害の嵐が吹きあれました。1609年2月4日、麦島の刑場でヨハネ服部甚五郎たちが、殉教しました。彼の5歳の息子ペトロは、お父さんが牢に監禁された後誕生したので、どうしてもお父さんに会いたくて、こっそりと牢に忍びこみ、初めてお父さんに会いました。そして、「どうしてお父さんは、病人や貧乏な人、苦しんでいる人のお友達なの?」と聞きました。ヨハネは「どうしてかなあ、やっぱり、神様との約束だからね。」と答えました。ペトロの心には、1回出会っただけのお父さんの言葉「神様との約束」が、消えない足跡を残しました。お父さんの殉教した同じ日に、ペトロも刑場に呼び出されました。処刑された父が横たわっているそばで、ペトロは「お父さん、神様との約束を果たしたんだね。」と言うと跪いて「どうかお父さんのように。」と、役人の前に首を差し出したのでした。

主任司祭 田中次生

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