列福をひかえともに祈る7週間 ―「テ-マ5・復活の福音を担う女性たち」―

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

前に書いたことがありますが、「津和野の殉教」について、3度も個人的に巡礼し、いろいろと調べたことがありました。そのとき2つのことが強く印象に残っています。その1つは、断食や寒さ孤独などの長期戦になると「女性」の方が、男性より強かったということ。
もう1つは、「しっかりしたお母さんがいる家庭は、殉教の最後まで信仰を守った」ということです。男性はどちらかというと短期決戦に向いており、女性は長期決戦に向いているのでしょうか。

今日の解説の中には、イエスさまの十字架の下にいた人達のことをヨハネが書いてあります。「イエスの十字架のかたわらには、その母、母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアとが立っていた」と。その後にヨハネにイエス様は声をかけられます。ヨハネ以外の弟子たちは、「死ぬ覚悟はできています」と豪語したペトロを含めて誰もいなかったのです。イエス様に対する女性たちの一途な気持ちを汲みとれます。

今度の「ペトロ岐部と187人殉教者の中にも、母として、家族と子供たちの信仰の支えとなった女性たちが沢山います。1613年有馬では、レオ林田の妻マルタが息子のディエゴと娘マグダレナを支え、小笠原玄也の妻みやは9人の子供たちの信仰を支え、殉教にまで導きました。

チースリク神父は、その著「キリストの証し人」の「殉教者の母」の章で、ペトロ岐部神父の母マリア波多について、1618年のイエズス会年報の記事を紹介しています。彼女には2人の息子がいました。ペトロは国外に追放されており、ジョアン五郎兵衛が逮捕された時(彼女は高齢のため逮捕されず)「この自分の唯一の息子を神に捧げようと一心に望んでいたので……われらの主にその恵みを願い、その意向でロザリオを一千回唱える誓いを立てた。そして短期間で実際にそれを果たした」と。ジョアン岐部は1618年小倉で殉教し、ペトロ岐部は1639年、江戸で殉教しました。

主任司祭 田中次生

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