アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

1945年8月9日11時2分、永井隆博士は、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学の研究室で被爆しました。彼は長年の放射線の研究で、白血病であと3年の命とまで言われていましたが、被爆者で溢れた大学構内で救援活動を行いました。ようやく自宅に帰り、台所跡から最愛の妻緑さんの遺骨を発見し、埋葬したのでした。そしてその足で、山の家に疎開させていた二人の子、隆一君と幼稚園児のカヤノちゃんに会いに行きました。板戸を明けて土間に入ったら、二人の子供がセミを捕まえて泣かせていました。二人は血だらけの博士を見てびっくりし、あわててすぐ外に出で母親を捜しました。しかしそこに「お母さんの姿」を見つけることができませんでした。隆一君の手からセミがあわただしく飛び立ち、その鳴き声が三人の心の中の悲しみを大きくしていきました。

博士の書いた「この子を残して」の本の中で、母をなくした隆一君とカヤノちゃんのつらさと悲しみをいろいろと書いています。原爆病のお父さんには絶対に近づいてはいけないと厳命されているカヤノちゃんが、ある時家に帰ったら、お父さんが寝ているだけで、看護婦さんも誰も居ないので、お父さんの側にそっと近づきホッペにホッペをくっ付けて「あぁ!お父さんのにおい」といって呟くところなど、目が熱くなってきます。

その本の中で、二人の子供に対して「悪意なき虐待」が毎日のようにあることを、悲しみをこめて書いています。博士自身は五人兄弟なので、毎日のように父親の怒鳴り声や母親の子供を呼ぶ声に囲まれて生活していました。そして戦後二年たって、弟夫婦が子供を連れて、博士の所に同居することになったのです。別に毎日楽しい笑い声の中で生活しているわけでもないのに、父親の怒鳴り声、母親が口やかましく子供をしかる声、こどもがすねたり、泣いたりしている声、つまり「日常のなんでもない生活」が、「オカァチャン」「ハァイ」などの呼びかけの全部が、カヤノちゃんの小さな胸に、一本、一本“釘”が打ち込まれていったと嘆いています。何でもない日常生活の中に、私達の大切なものがたくさん含まれているのです。

主任司祭 田中次生

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