アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

1841年、ドン・ボスコは司祭に叙階されました。その年の無原罪の祝日に「バルトロメオ・ガレッリ」少年との出会いがあり、3年間「司祭研修所」での勉学のかたわら、日曜日に少年達を集めてオラトリオを開いたのが、サレジオ会の事業の始まりになりました。当時イタリアは産業革命の最中にあり、田舎から都会に出てきた少年達は長時間労働を強制されたり、宿泊する場所もなく、身体的にも精神的にも、悲惨な状態にありました。ドン・ボスコは、「寄宿舎」を開いて、少年達を集め、衣食住の世話、市民として、信者としての教育を施そうと考えました。ようやく1846年ピナルディの家を買い、拠点にすることが出来ました。しかし東奔西走しての資金集め、また休みなしの24時間体制での仕事で、ついに鉄人ドン・ボスコも病に倒れました。その時、少年達がどれだけ熱心に神様にお祈りしたのか、ドン・ボスコ伝の中でももっとも感動すべきエピソードになっています。病気上がりのドン・ボスコは、ベッキ村の母の元で静養することになりました。体力が回復したドン・ボスコは、母親をくどき落として、オラトリオの子供達の“お母さん”としてトリノまで連れてくることに成功しました。

根性そのものの彼女がたった一度、くじけそうになりました。粗野で教養のない子供たち相手の毎日ですから、多少のことは目をつぶりましたが、ある日洗いたての洗濯ものが連続して2回も、遊びに夢中になっている少年達によって竿ごと地面にたたきつけられたのです。

母マルガリタは「もうここまで!」と決意し、荷物をまとめて黙ってドン・ボスコの前に立ちました。ドン・ボスコ彼女のただならぬ様子を感じ、子供達の教育の行き届かないことはお詫びし、それから黙って、壁にかけてある“十字架”像を指し示しました。母マルゲリタは、しばらくドン・ボスコが指し示す、十字架像を見ていました。そして「そうね」と小さく頷くと、もう一度自分の部屋に荷物を置きに行ったのでした。

彼女は、58歳から68歳で亡くなるまでの10年間オラトリオ全体の母親役をこなして下さったのです。

主任司祭 田中次生

おすすめ記事