アンドレ・ジードは書きます。「神のやったことで一番恐ろしいことは何だと思いなさる? それは、我々を救うために、自分の息子を犠牲にしたことじゃ。自分の息子を、自分の息子をじゃよ! 残忍性! これが神の属性の中で一番大きなものさ」と。彼の作品「贋(にせ)金づくり」に出てくる文章です。これは当然のこと“御受難・十字架・御死去”について考えた上での発言です。
しかし、使徒聖ヨハネは「神はこの独り子をあたえるほど、この世を愛した。それはおん子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」とのイエスさまの言葉を記録します。“愛の使徒”と言われたヨハネは、イエス様のご生涯・御受難・十字架・御死去・御昇天・御復活を、父なる神の愛として受け取らなければ、理解できないとも考えられたのでしょう。
愛の特徴は“常識を超える”ということです。ジードの考えは人間の常識の範囲内のことです。人間の愛の世界でも、たとえばコルベ神父様の“身代わりの死”のように常識を超えることは沢山あります。まして全能全善の神さまの愛は、私達の考えを遥かに越えます。
亡くなられた松永司教さまの「十字架の道行き」の中での黙想のヒントです。「キリストがお倒れになったのは、私の罪が重かったからだけではなく、私を愛して下さる神様の愛が重かったからでもありました。全知のお方を迷わせ、全能のお方の足をぐらつかせるほど、私に対する愛が強かったからです。罪に倒れた私を引き起こすために、私にかわって倒れることを望まれるほど、私を愛して下さったからであります。」(ロザリオのこころ)
今日は「ご受難の主日」です。そして「聖週間」が始まります。この一週間は、2回も「受難記」が朗読されます。その中で、教会が私達人間に望んでいるのは“神様の愛”を黙想することです。愛の特徴は“心の交流”を生むことにあります。“愛し愛される”ことを通して、愛は発展し、完成していきます。