5月末には2度の大阪出張がありました。27日(水)は「近畿カトリック学校連盟」主催の教職員の初任者研修会で、29日(金)は「理事会」でした。30日(土)の午前中には、私と一緒に星光学院で教鞭をとった副校長先生のお見舞いに行きました。彼は末期ガンで医者から見離されて、自宅療養中でした。だから29日は“秒刻みのスケジュ-ル”でした。午前中の“講座”・昼食・マリア会の家庭集会・碑文谷での育英学院理事会・懇親会と続き、新幹線で大阪の修道院に着いたのは、真夜中でした。次週に疲れが出たのか、風邪を引いてしまったのです。でも7日の日曜日に、多くの信徒の皆さんが、ミサが出来る位、元気になったのをとても喜んで下さり感激でした。中には「今度の“新型インフル”は、“65歳以上は免疫がある”と言われているので、毎朝朝刊を見て「初の65歳以上の患者さんが発生しました。川崎○○教会の○○神父です」とニュ-スになっているのではないかと、心配して下さった方もいたようです。本当にお騒がせいたしました。
さて、御聖体の祝日に当たって、御一緒に考えたいことがあります。それは聖書の中で、イエス様の行動について「泣かれた・怒って見回し・これを見て憤り・哀れに思い」とかは時々出てきます。しかし「笑われた・微笑まれた」という表現は一度も出てきません。しかし嬉しい(?)ことに「疲れた」という表現は出てきます。サマリアの女との出会いの個所です。「イエスは、旅に疲れ、井戸のかたわらに腰を下ろされた。時は12時ごろであった。」(ヨハネ4:6)と。イエス様は、カナの披露宴に参加されたり、食事に御招待されたりしていますので、“喜びの人”であっことは確かなことです。しかしそれ以上に「人の悲しみ・苦しみ・疲れ」が理解できるイエス様だったのです。
私達の毎日の生活の中で、喜びや苦しみ、悲しみや楽しみ、疲れが襲うこともあるでしょう。そんな時、“御聖櫃の中にいらっしゃるイエス様”を思い出したいものです。パウロが言うように、“罪以外の全て”を体験された、イエス様がそこにいらっしゃいます。