四旬節にあたって、教会はこの痛悔をとても大切にし、私たちにそのことを真剣に考えるようにと促しています。そのため、先週は「放蕩息子」の回心を、そして今週は「罪の女」とイエスとの出会いを黙想するように誘っています。

放蕩息子から学べることは「実行力」だと、先週のお説教の中でも考えました。放蕩息子は飢え死にしそうになった時、我に返って帰還を決意しました。そしてぐずぐずしないですぐに実行に移しました。「お父さん、私は天に対しても、またあなたに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません・・・・」の謝りの言葉の中で、この“天に対しても”は大切な意識です。まさに“痛悔”だからです。

そして今日の罪の女とイエスさまとの出会いがあります。このイエスさまは、あまりにも優しすぎるので、古代教会ではヨハネの聖書には含まれてはいませんでした。「イエスさまの優しさがかえって“あだ”になる」と警戒したからです。姦通の現場で捉えられた女を、手に石を持って取り囲む男たちに、イエスさまは言われました。「あなた達の中で罪のない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。年寄りから始めて一人また一人と立ち去ったと聖書は記します。私はこの箇所を読む時、いつも、最初に手から石を落とし、その場を静かに去った最初の年寄りのことを考えます。最初に「自分に罪がある」と認めた事になるからです。イエスさまの前でも、人々の前でも。でもそれで二番目の人が自分の罪を認め易くなり、結果的には恐怖に震えている「罪の女」の救いにつながったのです。イエスさまは、そしてその女性はどれほど心の中でその年寄りに感謝されたことでしょうか。

自分の罪を認める人に対して、キリストはいつも寛大です。ペトロの三度の否みに対しても、ペトロの涙と共に、すべて流してしまわれました。十字架上ではいわゆる「天国泥棒」に対して、すぐにゆるしの言葉を述べられました。四旬節はゆるしを与えてくださるイエスさまを思い出すキセツでもあります。

主任司祭 田中次生
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