2012年10月にローマで第13回通常シノドス(世界代表司教会議)が開催されます。会議のテーマは「新しい福音宣教」。このテーマは最近の歴代教皇によって、くり返し使われてきた言葉です。

前教皇ヨハネ・パウロ2世教皇は、<新しい熱意と工夫で宣教に向う>という側面を力説していました。ベネディクト16世の場合は、かつて宣教師を多く輩出した欧州こそ、現在、宣教の対象地域であるということを強調している点が特徴的です。<宣教地としての欧州>という捉え方の中に現教皇の抱く危機感がにじみ出ています。たしかに、横浜教区の司祭の集いに参加してみても、よく実感できます。横浜教区で働いている外国籍宣教師のうち、フランス・イタリア・スペインなどの国籍の宣教師はほとんどが70,80歳代で、50歳以下の宣教師は韓国・フィリッピン・ベトナム、アフリカなどの出身です。

教皇様は10月23日の「世界宣教の日」に際してのメッセージの中で、前教皇の使徒的書簡『新千年紀の初めに』59項を引用して、「いつも目覚めて、主の顔を認め、“主を見た”という喜びの知らせを皆に伝えるために駆け出す用意をするよう」促しています。喜びは自ずと、伝えたくなるはずなのです。

毎週、有志でヘンリ・ナウエンの本を読む会を行なっているのですが、先日、宣教に関する興味深い説明を読みました。紹介したいと思います。

  • あなたが神と親しく交わりつつ生活し、コミュニティーの中で人びとと一緒にいれば、それは宣教です。
  • 宣教とは、「さあ、次は何をしようか」というものではなく、神に対するあなたの愛と、同じ仲間へのあなたの愛があふれ出ることです。
  • イエスは30年もの間、ひなびた小さな村で過ごし、私たちと同じ生活をなさいました。福音を述べ伝えたのは、3年にすぎません。しかし、大切なことは、私たちと生活を共にして下さった、ということです。
  • 私たちの宣教は、病んだ人と死にゆく人と共にいることであり、そこがどこであろうと、どんな問題であろうと、そこに共にとどまることです。人びとの弱さに、あえてとどまろうではありませんか。そして、弱く、もろい部分に入っていくなら、計り知れない喜びを経験することになると信頼しましょう。それこそが、宣教というものの奥義です。

今日のバザーが、共にいる神の喜びを表す宣教の場でありたいものです。

主任司祭 松尾 貢
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