「教育とは、矛盾し両立し得ない二つの願いを持った楕円」

アイキャッチ用 松尾神父の今週の糧

成人の祝いを行う今日、“教育”について考えてみたいと思います。「北海道家庭学校」という教護院で30年以上校長を努められた、キリスト者である谷昌恒氏は講演の中で、次のように仰っていました。

「この学校に来る子どもにはあるパターンがある。10人の内9人は小さい頃は本当にいい子だった。子ども達は家庭で大切に育てられ、何でも言うことを聞くいい子だった。<両親は子どもの意に沿うようにし、意に沿わないことはさせない>という子育てをしてきた。これは子どもにとってすごく快適な環境です。子どもの世界が、家庭という小さな範囲ではそれでよかった。それが、成長につれ、学校・社会と世界が広がるうちに、適応できなくなり、社会からはじき出される。それに気付き、あわてて家に戻ってくる。“どうして俺をこんな風に育てたんだ!”それから突然家庭内暴力や非行に走り、果てはこの家庭学校にやってくることになる」と。

そこで、表題の言葉が出てくるわけです。教育を考えるとき、根本的に矛盾した二つの要素があります。

一つは、教育というものはできるだけいい環境を子どもたちに与えて、子どもに真っ直ぐ、すくすく育ってもらいたい、という営みです。
もう一つは、どんな悪い条件でも、どんなにひどい環境でも負けない、へこたれない、もし条件が悪ければ自分で条件を整えていく、そういう若者であってほしいという願いです。
この二つの願いの中で、右往左往するのではないでしょうか。

今の世の中は恵まれています。少子化ということもあり、親も祖父母も一人の子どもに手をかけ、過保護になりすぎです。“難儀”があることがよいことなのだ、と頭ではわかっているのですが、一生懸命、子どもから困難を取り除いているのが人情であり、現状でもあります。
困難、悲しみ、涙はない方がいい。しかし人生の実相は、ないよりはあったほうがいいとも言えるのです。

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ書5章2~3節)。

主任司祭 松尾 貢

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