昨年の諸聖人の祭日に、神戸のSシスターから「とっておきの話」が添付されたメールが届いた。長崎教区の古巣神父様が黙想会の講話で話された内容で、その話をきいたシスターが他の方々にも分かち合いたいと送られてきたものだった。
一読して、さすが古巣師、素晴らしい講話をなさると感動し、当教会の数人の方に送った。それが廻りまわって、白百合女子大学の田畑先生のところにも届いたそうだ。その田畑先生は『上智人間学会人間学紀要』の最新号42号の≪巻頭言≫「幼子のような人に現れた福音」と題して、その全文が資料として引用されております。希望者には添付ファイルでメールで送ることもできます。また、印刷しましたので希望者はおとりになってください。
古巣師は長崎市の浦上教会や神学校などで働かれた後、島原教会に転勤になりました。島原の乱でキリシタンが全滅した土地柄ゆえに、長崎県の中では信徒数が非常に少ない地域です。
しかし、その小さな教会で、師は島原半島のキリシタン遺跡の研究と啓蒙、行政への働きかけに努めました。その熱意は島原の市長村を動かし、“町おこし”のためにも積極的に歴史遺産の発掘とPRに乗り出す契機となりました。そんな師の多忙な働きの中で、あるとき出会った一人のかけがえのない人物が“ミネアン”でした。
島原市の精神病院で63歳で亡くなったサカミミネオさんが古巣師にのこした「私に都合はなかとです(ないのです)。神父さまの都合、神様の都合のよかごと(よいように)してください」という言葉は、受難と十字架の上に架けられるまで譲り渡された、イエズスさまの自己譲渡とダブってくる。
私たちは日常生活の中で、まず自分の都合を中心において事を始める。それが人間の業というものといえる。しかし、四旬節は、神様の都合を、隣人の都合をまず考えてみよう、という呼びかけを十字架のイエズス様は示しておられる。