この夏、軽井沢に行かれた方から「軽井沢新聞」のコピーをいただいた。「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子と宣教師たち、という題だ。

“軽井沢ナショナルトラスト理事のAさんが、2010年に横浜で開かれた村岡恵理さん(村岡花子の孫)の講演を聴き、花子の生き方に興味を持ち、著書『アンのゆりかご』を読んだ。「これがテレビ小説になったら」ともう一冊買ってNHKに送った。NHKからは本が届いたことと「検討します」という返事があったが、その後なんの連絡もなかったので、新聞発表を見て驚いた。もしかしたらあの1冊が放映のなにかのきっかけになったのかもしれない。

村岡花子に大きな影響を与えたひとりブラックバーン(ブラックモア)の別荘は、旧軽井沢のヴォーリズレーン近くにあった。またドラマに出てきた女学校のモデルは東洋英和女学院だが、ハミルトン校長の別荘も愛宕山別荘地にあった。軽井沢と宣教師たちの繋がりは深い。

現在、軽井沢のコンビニや飲食店が夜11時で閉店するのも「清潔で健康なリゾート」を守り続けた宣教師たちの影響が大きい。縁あって、軽井沢に暮らすようになった方々にもこういう軽井沢の歴史を知っていただきたい”という趣旨のコラムであった。

閑静な避暑地であった軽井沢が拡大していく中で、プロテスタント宣教師の間で野尻湖畔に移る人が増え、野尻に外人部落が出来、青山学院、東洋英和女学校、YMCA、YWCAの施設が湖畔の半分を占めるようになっていく。

毎年聖書学校が開かれるサレジオ会の野尻湖山荘はもともと東洋英和所有であった。1945年太平洋戦争もたけなわ、米国からの援助が途絶えて経営が苦しくなって、売りに出される。

一方、空襲が激しくなり、神学生たちの疎開場所を探していたチマッティ師は、1945年2月の日誌に「ボヴィオ神父とダルクマン神父は野尻の視察に行ってきた。雪が深く、5月まで疎開は不可能である。埼玉、茨城、軽井沢でも探してみる」。

続いて4月14日の日誌には「野尻湖の家の契約の調印をした」とあり、神学生達は4月下旬から5月上旬にかけて疎開している。

土地と建物の購入に必要な資金額ぴったりの寄付が香港から匿名で送られてきた。戦後チマッティ師は送金者は誰なのか探してみたが、判明しなかったという。不思議な縁とつながりの中で、現在の野尻湖サレジオ山荘がある。

主任司祭 松尾 貢
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