ゆるしの秘跡について ― Part2

アイキャッチ用 松尾神父の今週の糧

教会の七つの秘跡の中心にあるのが、糧としてのご聖体(ミサ)です。罪を犯してそのままにしておくと、聖体を受けつつ回心の道を歩むことが難しくなってしまいます。自分としては「終わったことは仕方がない。これからはしっかり生きよう」と決心していても、その足取りは鎖にからまれ、重くなっています。小さな罪であっても-塵が積もれば山となる-積み重なるがままに放置しておくとそうなります。「ゆるしの秘跡」はそれを癒やすためのものです。

個々の行為、あるいは怠りをしっかり真直ぐに見つめて告白する。そして、ゆるしていただくことによって、根源的な罪の状態から脱出する回心の道を力強く歩んでいけます。それがゆるしの秘跡の役割です。

その際、「根源的な状態」ではなく、「個々の行為」こそゆるしの秘跡でまず第一に扱われるべき問題となります。

御受難会の来住英俊神父様が書かれた『目からウロコ ゆるしの秘跡』から、具体的な勧めをご紹介したいと思います。

 「よく○○します」という告白があります。たとえば「よく夫婦喧嘩をします」という告白の場合、夫婦の仲が悪いという状態を言っているだけです。罪を認めているのではなく、「自分と夫の間はうまくいっていない」と悩んでいるのです。

「人の悪口を言います」という場合も、誰についてどんなことをどんな場で言ったのか」、一つの行為に焦点をしっかり当てるようにします。そうでないと、単なる“感じ”になってしまいます。いつ、何が理由で、どんな暴言を吐いたのか。一つひとつの出来事とその中にある自分の行動をはっきりと見つめる必要があります。

沢山の罪を告白する必要はありません。一つか二つの罪、例えば嘘や悪口とその結果を具体的に告白します。

自分の行為がどういう損害を誰に与えたかを究明し、それを悟り、認めることが痛悔と呼べるものです。例えば、訪問してきた人に冷たい態度を取ったとします。その結果、どういう損害が発生したのかを考えます。すでに苦しんでいる人を打ちのめしたかもしれません。司祭であれば、その人の教会に対する信頼を損ない、信者として歩む気持ちを弱めてしまったかもしれないのです。

 

主任司祭 松尾 貢

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