お腹が空いたお猿さんの前に、鍵のかかった檻に入れたバナナを与えたらどうでしょうか。お猿さんは手を入れようと必死に檻をこじ開けようしますが、決してそれを手に入れることはできません。お腹を空かせたお猿さんは力尽きるまで必死にあれこれ試しますが、ダメなのです。
私たちも似たような苦しみを味わうことがあります。どんなに頑張っても手に入らない。そんな時は、どうしたらいいのでしょうか。
スイスの精神医学者ポール・トゥルニエはこう言っています。
「自分の弱さを克服する第一歩は、それを受け入れることである」。
このトゥルニエの言葉を上記の例にあてはめれば、まず、自分の手でバナナを取ることは無理だと諦めることです。しかしそれは、望みを捨てることではありません。別の方法を探すのです。自分には出来ないことを認め、別の解決法を探し出すことです。別の解決の道とは、バナナが入っている檻の鍵を持っている人を探し、その人のところに行くこと
です。
あの使徒パウロも努力して善い人間になろうとしたのですが、自分の弱さを痛感しただけでした。パウロは自分を見つめ、「わたしはなんと惨めな人間なのだろう。誰がわたしを救ってくれるのだろうか」と嘆きます。しかし、<わたしはなんと惨めな人間なのだ>と自分の無力さを認めた時に、新しい解決の道が開けてくるのです。自分ではなく、キリ
スト様に目を向けたのです。
パウロは「誰がわたしを助けてくれるのか。誰がわたしを救ってくれるか」という点に目を向けたのです。檻の中のバナナではなく、檻の鍵を持っている人に目をむけるようになった。鍵はイエス・キリストにあるということを悟った。それが次の聖書の言葉となったわけです。
“わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救い出してくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します”(ローマの人々への手紙7章24節)
待降節、救い主の誕生。私ども一人ひとりへの主の到来を待ち望み主に委ね尽す生き方を目指したいものです。
主任司祭 松尾 貢