8月下旬に秋田キリシタン巡礼の旅に行った。旅館の玄関や食事の席に、「秋田キリシタン殉教地を巡る旅」ご一行様と書かれていた。隣には「東北の秘湯を巡る七日間の旅」のグループ。通りがかりの人の“ヘー、秋田にキリシタンがいたのか”という会話が聞こえました。初日の宿泊地・乳頭温泉の宿で夕食をとり終わったころ、給仕をしていた年配の女性がなまりのある秋田弁で語ってくれました。

今日は、「秋田キリシタン殉教地を巡る旅」の皆様のお世話をさせていただいて、感慨深いものがあります。小さい頃、ひでこ節を唄っていると、祖父母が“この唄は年貢がわりに納めるまきを集める時歌うもので、田沢湖周辺の隠れキリシタンの人たちはミサの時間と場所を知らせるのに使った唄だった”と話してくれたんですよ”と懐かしそうに忘れかけた歌詞を思い出しながら歌ってくれました。もちろん、秋田キリシタン史の本を読んでも、インターネットで〈キリシタン〉〈ひでこ節〉と検索してもそんな記事はお目にかかれません。しかし、そんな言い伝えが残っていることが、あまり知られていない秋田キリシタンの面白さなのかもしれません。

秋田教会の玄関わきにキリシタン殉教碑があり、次のように刻まれていました。

一、きりしたん衆三十二人火あぶり、内二十一人男 十一人女

一、天気よし        (『政景日記』より)

秋田久保田藩の切支丹取り締まり奉行梅津憲忠の弟・梅津政景の日記にあるこの二行が秋田キリシタンの殉教を伝える日本側資料だそうです。もちろん日記ですので私的なものですが、その二行の短い文はその簡潔さゆえに重い余韻をもってせまるものがあります。特に〈天気よし〉の一文は、政景の意図は別にして、殉教の悲惨さを逆に浮かび上がらせる表現と言えます。

一方、ヨーロッパ側の資料である『1624年イエズス会年報』はこの日の殉教を詳しく伝えています。1624年7月18日、久保田城外の刑場にて、河合喜右衛門ら21人の武士とその家族たちで、最後まで棄教せず、殉教した。その日は城下の久保田や近郊から集まった見物人で黒山の人だかりであったことが詳しく報告されているのです。湯沢の院内銀山や近隣の金山・銀山にも多数のキリシタンがいて殉教者が出たこと、久保田には聖母のコンフラリア(信心会)があったことも報告されています。

主任司祭 松尾 貢

LINEで送る