今日、教会暦は新しい年を始めます。先週の王たるキリストの祭日でC年が終わり、待降節第一主日の今日がA年の始まりというわけです。
『典礼暦年の一般原則』によると、待降節は「二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかである」と、説明されています。
待降節中の朗読によく出て来る預言者イザヤと洗礼者ヨハネ、ヨセフとマリアは、それぞれ自分のおかれていた現実を神の御摂理の中で受けとめることによって、メシアが世に生まれるのを手伝いました。同じ恵みと使命は、21世紀を生きる私たちにも与えられています。都会の満員電車の中でも、片田舎の家でもいい。世のどこかで「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と祈るもう一人の信仰者を通して、神の受肉は再び起こるのです。
待降節に入ると、黙想会と共同回心式があります。あのフランスのパスカルは『パンセ Pensees 』の中で次のように述べています。
“「もしあなたが、自分の犯した罪を知ることができるとすれば、あなたはきっと失望してしまうでしょう」と主は魂に言いました。「あなたが私の罪を明白にすれば、私は絶望するでしょう」と魂は答えました。「いいえ、あなたは絶望することはないでしょう。何故なら、あなたの罪が明白になるのは、それらがゆるされたときなのですから」と言って、主は話を終えました”
待降節にゆるしの秘跡にあずかることが強く勧められています。その準備として詩編の中の回心の詩編7つをまず読んでみてはいかがでしょうか。詩編6番、32番、38番、51番、102番、130番、143番です。
これら罪の赦しを信じて書かれた正真正銘の詩編を黙想した時、あのジローラモ・サヴォナローラと共に叫ぶことができます。
「私は、時には自分の中に存在する罪に対する恐怖で絶望し、時にはあなたの慈悲を信じることで支えられている気がします。しかし、あなたの慈悲は私の惨めさよりも大きいので、私は希望を持ち続けます」と。
主任司祭 松尾 貢