アイキャッチ用 松尾神父の今週の糧

新型コロナウイルスで大変なこの頃です。歴史的に見た場合、いつの時代も伝染病に悩まされてきました。最も名高いのは、14世紀のパンデミックで、通常「黒死病」と呼ばれています。このとき中央アジアで発生したペストは、一方は東漸して元時代末期の中国大陸へ、他方は地中海を経てヨーロッパ全土に及び、ほぼ半世紀かかってロシアまで達して終息しました。この時のフィレンツェの惨状を描いたのが、ボッカチオの『デカメロン』の序の部分です。死者は街路にあふれ、看取る医師や司祭もなく、辛うじて生き残った市民の中には享楽に走る者がいると思えば、ある者は過度の禁欲に陥り、生きた心地もしない有様だったそうです。この時の流行時には、原因もわからず、“伝染”という認識も希薄で、大気の汚染説と占星術的原因が主な解釈でした。“星の影響”が流行病を引き起こすという考え方は「インフルエンザ」(influenza)という言葉にそのまま残っています。その後17世紀の世界的流行のときのヨーロッパの有様はデフォーの『疫病流行記』が詳細に伝えています。カミュの『ペスト』は19世紀末の流行を土台にしています。

原因不明であることは様々な憶測を呼び、ユダヤ人に対する迫害もこれを契機に起こったともいわれます。人々は享楽に耽る一方で、鞭打ち行者の運動のような極端な贖罪へと走ることもありました。有名なオーベルアンメルガウの受難劇は17世紀の流行時の1633年、村の人々がペスト禍の軽いことを神に祈って、聞き届けられたら10年毎に全身全霊をもって神に受難劇を捧げることを約束したことに端を発する行事として知られています。

「メメント・モリ」(やがて死ぬべき者であることを忘れるな)というラテン語の格言がよく使われるようになったのは14世紀の黒死病の流行後でした。そのためにやや厭世的な意味合いが強調され、〈人間は必ず死に、この世での生は空しいものだから、この世での享楽や栄達を望まず、死後、神の国へ入れるように禁欲的に生きるべき〉という意味で理解されるようになりました。「メメント・モリ」は美術表現の定型でもあり、最も有名なものは「死の舞踏」です。ベルリンの聖マリア教会のものを見ると、様々な階層の人が手を繋いで踊っている図像ですが、ところどころ骸骨が一緒に踊っています。これは権力者も庶民も、金持ちも貧乏人も等しく死が連れ去っていくことを表しているそうです。

主任司祭  松尾 貢


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