フィリピンの共同体がミサの中の「主の祈り」の時、皆が手を取りあって祈ります。それもただ手を繋ぐというのではなく、繋いだ手を肩よりも上に上げて。何度見ても感動を覚えます。個人の意見ですが、日本の教会でも推奨したらと思います。
日本語の「主の祈り」には、「天におられるわたしたちの父よ」となり、どうしても「天におられる」にアクセントがあって「わたしたちの」は影が薄い。反対に他の言葉では、英語で「Our Father」、フランス語で「Notre Pere」、イタリア語で「Padre nostro」、中国語で「我們在天上的父」であり(「我們」はわたしたちの意味)、「わたしたち」、「我ら」が先頭にくる。一般的に、「わたしたちの父」は、一人「わたし」ではなく、「わたしたち」運命共同体があり、連帯感が感知される。教会では、それを「神の民」という。
つまり、「主の祈り」の「私たちの父」という呼びかけの裏地には神の民として一致していることを表す鷺沼教会という集いがある。それでは、神の民というのは? 神の民というのは、司祭・修道者・信徒が一つになってつくる教会である。司祭だけが突出してはいけない。信徒だけであってもいけない。一緒になってつくっている教会のことを指している。更にこの神の民を導くのが聖霊であり、聖霊によって集められて、私たちは一つの神の民、教会をつくっている。
残念だけど悲しいかな,人間の弱さからくる欠陥のために、常に一つになることができないという現実もある。その主な原因を探っていくと、神の民というのが聖霊の導きの下にある教会であるということを忘れてしまったことにある。すなわち、人間の集まりにしてしまったということである。神の導き、聖霊の導きのもとに集められた神の民ということを強く意識することが肝心。あなたは司祭かもしれない。修道者かもしれない。信徒のいろいろな役割を担っているかもしれない。いろいろな役割を担っている人たちが一つになって,聖霊の導きのもとに教会、神の民をつくっている。誰一人として役に立たないで捨てられる者はない。崩れる原因の一つは、聖霊が中に働いているということを忘れて人間の集まりにしてしまうことにある。いわゆる文化的なサロンのようなものになったり、ボランティアグループの集まりの場所になってしまったり、あるいは信心だけをする自分の小さなグループをつくるということで終わってしまうのである。神の民は聖霊の導きを中心として集まってくる、こういう教会を目指していきたい。
主任司祭 長澤幸男