​「慎んで主の祈りを唱えましょう」

アイキャッチ用 長澤神父の今週の糧

この「慎んで」とは具体的に、どのような心構えを指すのであろうか。チプリアニ司教は、イエスの「たとえ話」、「ファリサイ派と徴税人の祈り」を用いて次のように話す。

さらに彼は、自分が神に仕えてどのような信仰の行為、奉仕をしているかを語る。彼は、断食、献金において他の人びとが真似できないような素晴らしい勤行をしていると述べて、自分のプロフィールの紹介をぬけぬけと言っている。

(新共同訳では「自分は正しい人間だとうぬぼれて」)そして「ひとりでこう祈った」とあるが、原文では「自分自身に向かって祈った」。つまり、彼の祈りの言葉は、「独り言」のよう。であるから、その祈りは神にまっすぐに向かっていない。

それに対して徴税人の祈りは、神にのみ向けられている。「罪人のわたしを……」と言っているのは、周囲の人びとと自分とを比較してどうだということではなく、ただひたすら神のみを見つめ、神による罪の赦しを願い求めて祈っているのである。

つまりこの二人の根本的相違は、本当の意味で祈っているかいないかで、神を本当に見つめ、神の前に立っているか、それとも他の人と自分とを見比べてばかりいて、人間の前に立っているか、ということである。

自分の悩みや苦しさをばかりをぶちまける前に、誰に祈っているのかを考えなさい。自ずと、頭を垂れて静かに祈るようになる。さらに、その先、沈黙の祈りに変わるであろう。

主任司祭 長澤幸男


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